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法 学 研 究 第九十八巻 第九号 定価 (本体一〇〇〇円+ 税)Vol. 98 September 2025 No.9ISSN 0389-0538Edited by HOGAKU-KENKYU-KAI(The Association for the Study of Law and Politics)Faculty of Law , KEIO UniversityMita, Minato-ku , Tokyo 108-8345令和 七 年九月二十八日発行(毎月一回二十八日発行)ArticlesBeyond the State: Competing Concepts in Interwar Japan (1)‒ Novelist Sato Haruo and new bureaucrat Matsumoto Manabu in relationto the “Bungei Konwakai”‒TAMAI, Kiyoshi…( 1)Professor EmeritusCase Notes ( 99)Farewell LectureFourty Years of Studies on the Chinese Communist PartyTAKAHASHI, Nobuo…( 75)Professor Emeritus
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〒一〇八- 八三四六 東京都港区三田二丁目一九番三〇号発売所 慶應義塾大学出版会振替口座 〇〇一九〇―八―一五五四九七電話〇三―三四五一―三五八四本誌の入手・予約購読につきましては左記、慶應義塾大学出版会までお申込みください。予約購読料(消費税・送料含む)半ヵ年 五五〇〇円一ヵ年 一一〇〇〇円令和 七 年九月二十日 印刷 第九十八巻令和 七 年九月二十八日 発行 第九号定価(本体一〇〇〇円+ 税)東京都港区三田二丁目一五番四五号慶應義塾大学法学研究会代表者 山 本 信 人電話〇三-五四二七-一八四二東京都港区三田二丁目一九番三〇号制 作 慶應義塾大学出版会株式会社東京都文京区後楽二丁目二一番一二号印 刷 所 萩原印刷株式会社編 集 兼発 行 人法学研究編集委員会委員長 法学部教授 山 本 信 人委員 法学部教授 篠 原 俊 吾同 法学部教授 田 髙 寛 貴同 法学部教授 杉 田 貴 洋同 法学部教授 大 串 敦同 法学部教授 磯 部 靖同 法学部教授 礒 﨑 敦 仁同 法学部教授 山 腰 修 三同 法学部教授 奥 健太郎同 法学部教授 築 山 宏 樹同 法学部准教授 岩 川 隆 嗣同 法学部准教授 武 井 良 修同 法学部准教授 松 浦 淳 介同 法学部専任講師 尹 仁 河同 法学部専任講師 林 良 信
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執筆者紹介・第98巻第8号目次
執筆者紹介玉 井 清 名誉教授高 橋 伸 夫 名誉教授久保田安彦 法務研究科教授高 田 賢 治 法務研究科教授論 説日本における気候訴訟とその法的問題 三 上 威 彦―民事訴訟法上の視点から―小幡篤次郎の「中等社会」構想と士族観 姜 兌 玧資 料債権者の利益のための強制執行法と企業の利益 マルコ・デ・クリストファーロのための倒産法 三 上 威 彦/訳韓国・ストーキング対策二法及び電子監視法 太田達也/訳・解説(邦訳)判例研究〔商法〕 六六〇 商法研究会特別記事葉晨陽君学位請求論文審査報告岡部克哉君学位請求論文審査報告王禹君学位請求論文審査報告商事売買について売主に重過失がある場合には商法五二六条三項の売主の悪意と同視できるとして責任を認めた事例第九十八巻 第八号 目次
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髙田久実君学位請求論文審査報告
156法学研究 98 巻 9 号(2025:9)髙田久実君学位請求論文審査報告一 はじめに 髙田久実君がこの度提出した博士学位請求論文「訴えと裁きの近代法史」(以下、本論文)は、同君が本塾大学院法学研究科公法学専攻後期博士課程在籍中に『法学政治学論究』に発表した論考のほか、二〇一五年三月に同専攻同課程を単位取得退学した後に、同君が法制史学会や法文化学会等の学会誌や論文集等に精力的に発表してきた諸論稿が集められている。また髙田君は大学院生の時から法務省法務史料展示室の企画運営にも協力し、そこで得られた学術的知見を随時発表してきており、その成果の一部も本論文に収録された。 髙田君の大学院時代からの関心は、本論文の序章にも記される通り、明治一三(一八八〇)年に公布され同一五年に施行されたいわゆる「旧刑法典」の編纂過程に置かれてきた。同法の特に司法省の草案起草段階におけるお雇い法律顧問ボアソナードとそれに対峙する日本人編纂委員(鶴田皓ら)との議論に同君は着目し、そこに通底する法認識、あるいは相反・離反する彼我の法理の型を見極め、紆余曲折を経て結果としてその両者がいかに妥協しひとつの条文としてまとまりをつけてゆくのか、その経過を丹念に追跡する研究を発表してきた。その成果の一端は本論文にも当然に収められているが、この度の博士学位請求論文は、そうした法典編纂の作業の内部的な視点にとどまらない、より広い研究視角が提示されている。 当初、明治新政府による刑事法領域の改革プランは、明朝、清朝の法制を模したいわゆる「中国律型」の刑法典を作成することにあった。明治三(一八七〇)年の新律綱領および同六年の改定律例が実際の立法例だが、これら二つの刑事法典が複雑に並行施行される当時の法体制下に、我が国における西洋型法典の嚆矢としての旧刑法典が成立する。このことから、我が国の刑事法領域における法制の近代化とは、「中国律的法システム」からの脱却として描くことが可能となる。なによりも伝統中国法は民商のいわゆる私法領域の自律化を遂げないままに二〇世紀を迎える。その法文化は国家実定法の中心に刑罰法としての律と行政官僚組織法としての令を据え、この律と令とを以て強力な中央集権国家の法治主義的根拠とした。明治維新政府は、特 別 記 事157王政復古の号令の下、古代律令時代の統治体制を俄かに引き直し、上述した如くの明・清律の受容に急いだのだが、本論文が対象とする、旧刑法の完成に至る明治初年期の法環境とは、このように基盤となる制度構想が未だ明確ではなく安定に乏しいものであった。 本論文の第1部では、「訴えと刑事裁判」が論じられる。その第1章では江戸時代の訴訟手続きである「吟味願」が明治以降も存続した事実が取り上げられる。髙田君は、実体法・手続法の分界のみならず、民事・刑事の分化すらも明瞭ではなかった当時の法実務において、この「吟味願」が一定の役割を果たしていたことを実証した(本論文第1部第1章)。そしてこの「吟味願」はやがて近代法化の過程の中で消滅するのだが、髙田君はその制度の廃止過程を、上記旧刑法と同時期に施行された我が国最初の刑事訴訟法典である「治罪法」の制定に至るまで、実務・立法の両局面から丹念に追跡する(第2章、第3章)。また第2部の各章では、実体的な刑事法規範の形成過程の観点から、刑事裁判運用の実態分析が進められ、立法と司法とが相互に動態的に関連付けられる。例えば、中国の伝統的な五刑システム(笞・杖・徒・流・死)は、明治五(一八七二)年には早々に「懲役刑」の導入によって変更されたが、日本はさらに中国古来の刑罰体系には含まれなかった罰金をはじめとした種々の「金銭刑」の導入を図り、近代化にふさわしい法の在り方を生み出してゆく。こうした、近代法史上大きな制度改変の契機が、旧刑法編纂の前史としてだけではなく、編纂作業と共時的に展開していた司法実務の中にも伏在していたことを、本論文は史料実証的な方法で徹底的に解き明かす。また本論文の巻末には、各種判決録や司法統計等から悉皆調査によって得られたデータが、本文の行論を支える根拠として綴じ込まれている。以下に本論文の構成と概要とを紹介してゆく。二 本論文の構成 本論文の構成は以下の通りである。紙幅の関係から、部、章、節のみを挙げるにとどめる(なお、本報告一、および三、四においては、部、章、節の番号表記は算用数字としたが、年や条文の番号表記は、漢数字に統一した)。序章第1部 訴えと刑事裁判第1章 明治の吟味願1.はじめに158法学研究 98 巻 9 号(2025:9)2.吟味願の運用3.司法省と吟味願4.むすび第2章 告訴告発の導入とその利用1.はじめに2.証拠と告訴告発の分化3.司法警察仮規則下の告訴告発4.罰則の告訴告発と賞金5.むすび第3章 告訴告発をめぐる糺問と予審―司法警察仮規則から治罪法へ1.はじめに2.司法警察仮規則による告訴告発の法定化3.司法警察仮規則の起草と告訴告発4.治罪法と告訴告発5.治罪法に基づく制度変更と調整6.むすび第4章 偽証と誣告の狭間―拷問制度と旧刑法の編纂1.はじめに2.偽証罪と誣告罪の権衡3.ボアソナードと証拠法制4.鶴田の刑事裁判観と拷問評5.むすび第2部 刑罰と金銭の法秩序第5章 明治の律と律外の金銭刑1.はじめに2.制裁としての「金銭の剝奪」3.「金銭の剝奪」から見る法秩序の形成4.むすび第6章 罰金刑の成立と身代限1.はじめに2.旧刑法の編纂と罰金刑3.罰則と身代限4.罰金額の収斂と滲出5.むすび第7章 宝貨と国法―断罪無正条条例による量刑と規範形成1.はじめに2.「律令」の増補案と不応為3.明治9年国立銀行条例と改定律例の協働4.明治9年国立銀行条例第88条の射程5.むすび特 別 記 事159第8章 古金銀と旧貨幣―偽造罪の射程をめぐって1.はじめに2.律型刑事法典における宝貨の実像3.旧刑法の編纂議論における貨幣4.むすび第9章 終章1.訴えの近代化2.裁きの近代化3.司法省における司法実務と法典編纂表三 本論文の概要 第1章は「明治の吟味願」を論じる。吟味願とは、江戸時代の裁判手続であり、「出入」(今日のいわゆる民事訴訟)において、「吟味」(今日のいわゆる刑事訴訟)を行う訴訟手続であった。日本法制史学の大家、石井良助はこれを「曲直を糺すことを請う情願の一種」と定義づけた。例えば金銭消費貸借を審理する過程において、証拠が定まらず、原告と被告の争論がより深刻化した場合に、原告が吟味を願い出て、刑事事件として審理を進めることが出来たのである。だが、明治維新後、一昼夜にして制度が改まるものではない。この民・刑相半ばする性格を持つ旧時代からの手続きは、結局、明治一四(一八八一)年一月に司法省甲第一号布達によって廃止されるまで運用が続けられた。髙田君は、明治初期における吟味願の運用実態について、同時期の太政官布告や布達、および司法省布達や達等の法令を精査し、さらに『大審院刑事判決録』、『大審院民事判決録』を繙き、初めて本格的な実証的分析を行った。その結果、西欧法の導入がすでに着手されていた当時にあって、この吟味願が近代法的理解の下でいかなる制度的性質を持つのかの議論が司法省において続けられていたこと、また、裁判所の利用者においてこの旧時代からの手続きを選好する人々が相変わらず多く、ときに濫用ともいえるような利用のされ方が目立つようになると、各裁判所からは、当該制度の継続運用についての可否を問う伺が司法本省に対しかなり頻繁に立てられていたことが解明された。吟味願の存続か廃止かをめぐって司法省は、ある場合には告訴告発の制度に、またある場合にはフランス刑事訴訟法における附帯私訴制度に、それぞれ立法的に読み替える試みをするものの、明確な判断を下せぬままにあった。結局は明治九年時に導入された刑事告訴告発制度に代替され、上述の明治一四年一月の司法省布達によって廃止された、とするの160法学研究 98 巻 9 号(2025:9)が髙田君の解釈である。この吟味願の廃止について同君は、翌一五年一月の施行を待つ治罪法典との連関も示唆している。この第1章は、続く第2章から第4章に至る、本論文第1部の総論的な位置づけを持つ。 第2章では、前章で展開された明治初年期の手続法制度下の状況について、とりわけ告訴告発制度導入の観点から詳密な論考が重ねられる。明治日本の近代的刑事訴訟手続きの整備は、明治五(一八七二)年の司法職務定制――検事制度を日本で初めて規定――を皮切りに、同七年の検事職制章程並司法警察規則、同八年の検事職制章程、同九年の司法警察仮規則と進み、同一三年公布の治罪法を以て一応の到達点とする。このうち、告訴告発は、前述の司法警察仮規則(明治九年四月司法省第四八号達)において初めて明確に定義づけられ、さらに同規則は告訴告発の受理機関を司法警察官ないし検事と定めた。この限りで、告訴告発とは検事ないし司法警察官による犯罪認知の一契機であり、また犯罪の証憑ともなり得るものとされたが、髙田君は、この背景には、ボアソナードの発意により同八年から喧しく議論されるようになった「拷問廃止」に向けた証拠法制整備の気運があったことを指摘している(この経過は第4章で詳述される)。ただし、こうして導入された告訴告発により立件される対象範囲は、当時の刑事法典であった新律綱領や改定律例の規定する刑事犯罪に限らず、いわゆる行政罰則違反も含む極めて広汎に亙るものであったことを髙田君は種々の統計資料を用いて実証する。同君はそこに明治政府の治安政策の一端を見るのだが、その文脈の延長上に前章の吟味願を告発として読み替えようとした司法省の意図をも位置づけており、吟味願は旧態依然たる訴訟手続ではあったものの、司法省が俄かに廃止できなかった事情を推察している。 第3章も告訴告発の制度を扱う。前述の通り、同制度は明治九年の司法警察仮規則で定められたが、この仮規則は同一五年に旧刑法とともに施行された治罪法によって廃止される。そこで本章は、同仮規則上の告訴告発の制度が、どのように治罪法典内に取り込まれ、他の関連規定との連関性の下に体系づけられたのかという観点で議論が進められる。前述した新律綱領および改定律例は、中国の伝統的な律形式の法典であり、その中味はいわゆる実体法的規定、手続法的規定が混淆して構成されていた。むろん明治国家はこれに併せて、裁判を行うために数多くの布告や布達、達といった単行法令を発出し、実体上、手続上の法規範の不足を補っていた。髙田君は、まず上述の司法警察仮規則特 別 記 事161の制定過程を入念に洗い出し、特に同仮規則の元老院における審議に着眼する。同規則の草案には「告訴告発ノ事件ニ法律ニ触レサル者ハ検事告諭シテ之ヲ退クルコトヲ得」との条項があったが、これは「法律ニ触ル者ト否トヲ分別スル」権限を検察官の職権とする考えに連なる。ところが、この権限を糺問判事に属せしめ検察官はもっぱら告訴告発を受理する機関として位置づけようとの考えが対立し、結果としてこの後者の意見が採用されたため、当該条項は草案から削除されたと髙田君は分析する。そして同君によれば、告訴告発の扱いをめぐる検察官の権限をめぐるこの問題は、治罪法典編纂における、検察官と予審判事の職権についての議論にパラフレーズされるものと解釈される。尤も糺問判事は件の司法警察仮規則と同時に施行された糺問判事職務仮規則が規定するところであり、他方の予審判事はフランス刑事訴訟法上に起源を持つ制度であり、両者は類似するが同一の制度ではない。だが治罪法編纂にも携わったボアソナードによれば、告訴告発を受けた検事による「検証」や「訊問」は一定の場合に認容し得るとするのに対し、日本人編纂委員は、告訴告発を受けた検事は一律に起訴をするべきものとし、検察官の職権をめぐる理解は彼我において微妙なすれ違いを見せてゆく。 第4章では偽証と誣告が論じられる。伝統的な中国律においては、むろん新律綱領も改定律例も例外ではなく、有罪認定の必要な法定証拠として「口供結案」(被疑者の自白)を求め、正式な証拠手続きとして拷問を定めていた。これを「前時代的な悪弊」として、明治政府は明治一二(一八七九)年に廃止する。実はこの経緯はすでに先学によってかなり詳らかにされているが、この文明開化期を象徴する大きな刑事法の制度変革が、同九年から一〇年にかけて展開した旧刑法編纂過程――司法省段階――におけるボアソナードと日本人編纂委員の討議の中にも反映されていた事実を、髙田君は第4章で示した。同君は『日本刑法草案会議筆記』を丁寧に繙き、誣告罪と偽証罪の法定刑をめぐる両者の理解の齟齬に着眼する。ボアソナードは刑事捜査の緒を開く段階での誣告行為よりも、後の公判段階の宣誓後に偽証する行為を重く罰する趣旨を説明するが、これに対し日本人編纂委員は最初、誣告も偽証も人を罪に陥れる点では「相似タル罪ニ付……彼此同権衡ノ刑」が適当であると表明していたが、やがて誣告の方がむしろ「被害者ヲ罪ニ陥レント予謀」する行為として、公判廷にて「不図偽証」する行為に比し「其情重」しとして、誣告罪の方を重く罰する意見に傾いてゆく。両者の議論はなかなか収162法学研究 98 巻 9 号(2025:9)束を見ず、結局、旧刑法典上は両罪とも同じ法定刑が規定されることとなった。日本人側の当初の主張が通った形となったのだが、髙田君はこうした日本人編纂委員の議論の背景として、まず新律綱領や改定律例には誣告の処罰規定はあったが偽証についてはなかったこと、また当時の刑事裁判が――本書第1部の各章が論じた如く――「吟味の始点たる告訴告発」を重視していた点を注目している。さらに「官吏人民ニ対スル罪」の審議過程中、後に旧刑法第二八二条に結実する議論において、拷問が行われている当時の実務状況を念頭に入れた日本人編纂委員の発言にも髙田君は注意を向ける。ここには刑法典上の実体法の規範定立を目的とした議論の最中に、同時期に進行していた手続法改革の写像を見出す新しい研究手法が示されている。 第5章、第6章では、明治初年期におけるいわゆる「罰金刑」の成立を扱う。ただし「罰金」という言葉自体が、当時、今日とは異なる制度的背景においてすでに用いられており、説明上無用な混乱を避けるために髙田君は、「金銭の剝奪」を目的とした制裁という表現を用いて法史の再構成を試みる。なによりも中国律の系譜を継ぐ新律綱領や改定律例にあっては、「贖罪・収贖」という「金銭の剝奪」刑があったが、これはあくまで換刑としてのみ認められる措置であった。伝統的な中国の五刑には正刑として「金銭の剝奪」を目的とする制裁は数えられていなかったのである。だが当時、「律外」と分類されていた違式詿違条例や種々の罰則はむしろ「金銭の剝奪」を第一次的な制裁手段として体系付けており、前者は「贖金」、後者は「罰金」とそれぞれ呼称した。このほか「科料」も見られたが、髙田君は、明治太政官期の複雑多岐にわたった数多くの法令のうち、「金銭の剝奪」を定めたものについての相互の適用関係を精査して、特に不払いが生じたときに贖金は自由刑に換刑されるが、罰金は身代限によって追徴されたことを明らかにした。こうした明治初年期の「金銭の剝奪」を目的とした種々の制裁は、運用面では複雑に重畳する状況を呈していたが、旧刑法が普通刑法典として種々の法令の規定する罰金刑を一般的な形で定めたことによって収斂を見る。身代限による追徴を旨とした従来の在り方は、旧刑法典の規定する禁錮刑への代替措置に換わられたが、髙田君はこうした法典編纂上の規範の整序過程を徹底的に洗い出すかたわら、実務における運用上の移行措置にも目を向け、そうした制度の端境期に発出された布告等の単行法令が立法と実務とを繫ぐ機能を果たしたことを注意深く分析している。特 別 記 事163 第7章、第8章では、貨幣の国家管理および貨幣偽造が扱われる。明治国家は一元的な法秩序の創出を急いだが、近代国家として当然に貨幣制度――貨幣の計算単位の統一、政府・中央銀行への貨幣高権の集約、流通貨幣から本位貨幣への兌換保障――の確立にも早くからとりかかった。維新後も依然として旧幕下の藩札がいわゆる地域通貨として流通している状況に対し、太政官政府は、まずは大蔵省の提案を契機として、次に明治九(一八七六)年の国立銀行条例により、新律綱領および改定律例による刑事規制を強めてゆく。第8章では、「偽造宝貨罪」の処罰対象となる「宝貨」の範囲について、当該政府の発行する現用貨幣ではなく藩札等のいわゆる「旧貨幣」を含むか否かについての明治初年期の刑事司法実務内での議論や、旧刑法編纂におけるボアソナードの解釈等を参照し、理論的な分析を加える。なお第7章では、政府による統一的な貨幣秩序の形成・維持のために、当時の刑法が積極的に用いられてゆく経緯を詳しく再現するが、その際に援用された法理(条文)が「断罪無正条条例」(改定律例第九九条)であったことに髙田君は着目する。同条例の趣旨は、明文の根拠がなくとも、「令」、「制」、「式」といった類型の法令の定める禁則を破った者に対し、最大一〇〇日までの懲役刑を宣告し得る、とするものであり、まさに近代的な罪刑法定主義原則に背馳する前近代的刑法であるとの評価を受ける、中国律の真骨頂ともいうべき内容であった。尤も髙田君は、国家貨幣秩序の創出という近代国家が所管する大きな政策課題の実現のために、国家が刑事罰を手段とする規制を導入し、その中核となる法典的根拠を新律綱領や改定律例に定め司法運用が為されていた事実に、もはやそれらが中国律であるか否かという問題を越えた「刑法」としての普遍的機能を看取する。これこそ法文化や歴史といった固有の位相の下に法を語る文脈をひとまず離れ、徹底した実証研究に基づき当時の法システムの機能的考察を踏まえた髙田君だからこそ得られる認識であり、むろんその「刑法」としての機能を繫ぐ延長上に旧刑法典が現れてくるのである。四 本論文の評価 そこで本論文の評価だが、そのなによりの成果は、第1部において展開された、本来近世期の裁判手続きであった「吟味願」が、明治初期においても政府公認の裁判手続きとして存続した実態を解明した点にある。髙田君は大審院の民・刑事判決録等にあたり、下級審において吟味願を利用した多くの事案をつぶさに採取し、それらの一覧を踏ま164法学研究 98 巻 9 号(2025:9)えた後に、明治期の吟味願の運用についての考察を掘り下げる。そしてその制度としての消滅にいたる経過を、当時の実務的局面のみならず、同時進行していた司法省における法典編纂の局面とも関連付けながら見事に再構成した。 日本の法史は、一九世紀後半期における西洋法継受の前と後とで断絶があるとされてきた。確かに西洋法のインパクトは大きなものだったが、歴史を語る方法においても、近代法史と近世法史とは互いに結び合わないものされ、そこでは法の連続した歴史像を持てないとされてきた。だが髙田君は、近時の近世法史学における成果に立脚しながら、この民事から刑事への手続き変更制度を頻繁に利用する訴訟人(原告)の存在は、実は幕藩体制下でも明治初期でも共通して見られ、彼らこそ自己に有利な解決を図るために積極的に訴訟制度の活用に勤しむ者たちであったことを指摘したのである。これは、訴訟/裁判所を忌避する日本人像をかつて提示した古典通説的な「日本人の法意識」論に対する法制史分野からの有力な反証例となろう。 むろん、裁判はお上の恩恵的な行為であったとされる近世期の法観念が維新直後に一夜にして変わるはずもなく、また民事の訴訟として受け付けた事案を裁判所が「断獄廻」として刑事の取り調べに変更することも明治初年期は頻繁に見られた。こうした民刑が混淆する状況下にあって「吟味願」とは、「願」という文字が示すように、その本質は上級機関に対する人々からの「情願」であったと解される。しかし現実には係判事に対する不平や不満から「吟味願ヲ為シテ其鬱憤ヲ消セン」として、あるいは「一時其責ヲ免ルノ策」として吟味願が戦略的に用いられたため、明治十年代に入ると吟味願による民事裁判の中止はひとえに「審判権ノ冒涜」であるとの批判が、地方裁判所からあがり始める。その一方、司法省はこうした近世的制度を同一四年に至るまで廃止しなかった。それは明治政府(お上)が人々の吟味願の「情願」の中に、刑事事件化を望む「訴え」の契機を見出し、それを犯罪捜査の端緒として治安予防政策の一環に位置づけていたからだと髙田君は推測する。吟味願は明治九年の告訴告発制度の導入後も存続し、そうした新規の制度との整合性が司法省等においても縷々論じられたが、同一四年、とうとう吟味願はこの告訴告発手続きに代替される形で廃止される。翌一五年に施行される治罪法はこの告訴告発を手続きとして組み込み、かくして今日に至る近代法的淵源がここに確立する。髙田君は吟味願という近世的制度の利用実態とその消滅とを、明治初年の慌ただしい近代化過程の中でリアルに注意深く再構成し、特 別 記 事165前述した法制史研究者における「前近代」と「近代」の間に横たわる方法論的なアポリアを超克し得る視点を提示したのである。 また本論文の特筆すべきもう一つの成果は、明治初年期の伝統中国法的刑法の法構造やそれを前提とした伺・指令型司法実務を克明に解析・調査して得られた知見と、それと同時併行する旧刑法や治罪法などの近代的法典編纂作業とを、内容的に連関させて分析する手法により、今日の法システムとは異なる明治初年期の法状況を鮮やかに描き出したことであろう。髙田君は、お雇い外国人法律家による近代法的理解に俄かには包摂され得なかった日本人編纂委員サイドからの疑問や反論の背景に、当時の司法実務上の課題をパラフレーズさせ、外国人立法者によって持ち込まれる近代法的思惟に対立・対峙する固有の日本的法状況の存在を輪郭付けた。更に、このような司法実務の社会との関係性が、本論文の後半部分において、同時代に進行していた貨幣の国家的統御という経済システムの変動と「金銭の剝奪」というサンクションが、「中国律的法システム」のプラグマティックな運用において接合されるダイナミズムとして活写されており、法制史学と社会経済史学との架橋をも期待させる。こうした方法により、これまで主に法典編纂事業を軸として描かれてきた日本の近代法化の過程が、立法と司法実務といった異なる次元・時間において進行する法改革であったとの輻輳的な認識が強調され、両者間の、あるいは外国人法律家と日本人立法者間の対立や連動・協働のダイナミズムが一層歴史叙述の中に持ち込まれ、西洋近代法継受における日本の主体的姿勢の豊かな再現に資することになった。 この一方、いくつかの注文もある。たとえば、本論文第1部が論じた吟味願についてだが、その明治期における消滅の途次を、刑事手続過程の中に「回収」される行程として髙田君は描いたが、同時期における民事手続の整備過程からの考察に薄い点を挙げられよう。民事については、明治五(一八七二)年の司法職務定制では代書人や代言人といった、当事者の訴状作成や法廷での弁論を補佐する新しい職掌が定められるが、江戸時代からの町村役人差添制度はそのまま存続した。この制度は訴訟当事者の訴訟活動を補佐しつつも共同体的な監視下に置く機能も伴っており、訴訟提起者の自律的な活動を妨げていたとの評価がある。尤もこの差添人制度は、翌六年の代人規則や訴答文例では廃止され、これにより訴訟当事者の自律性が増し加わったことに近代化の微光を読み取る解釈も存する。刑事手続が166法学研究 98 巻 9 号(2025:9)整備されるかたわら、民事もまた制度化が進みつつあった。吟味願はもとより民刑が混淆する手続である。この辺りの説明についてもう少し言及があってもよかったかもしれない。またこれは、いささか望蜀の嘆だが、明治初期の司法実務における伺・指令裁判体制と近世期の伺・指令裁判体制の連続性の検証、そして、そのような連続性がこの後に生じる西洋型法典の編纂及び、「法学的摂取」の結果もたらされたドイツ型の法ドグマーティクの展開においてどのように変容していったのかについても、もっぱら明治初期の司法制度を研究射程に置く髙田君における今後の課題として頂きたいと考える。近世期の法実務の継続ないしは残存が、明治期以降にあったのかなかったのか、あったとすればそれはどのように見られたのか、そしてそれが「日本法」の総体においてどのような意味を持ちうるのかというテーマの重要性は、吟味願の研究者である髙田君であればもはや当然に了解されるものと思われる。 最後に、法制度や司法運用を細部にわたり悉皆、綿密に調査する髙田君の方法は、時として説明の論理性をやや複雑で難解なものとする。刑事か民事か、あるいは実体法か手続法かの、近代法的な二項区分が――それが近世法であるがゆえに、または中国律型の法システムであるがゆえに――未だ成立していない中に西洋近代法の継受が急速に進められるという、いわば今日のような法を語る共通言語を持ち得なかった混沌とした時期を扱っている以上、歴史を書くにあたっては極めて方法自覚的に臨まなくてはならない。徹底蒐集したデータを前提としつつも、研究の対象や目的に厳格に焦点を絞った大胆な資料選択、および明確化を目指し、説明の単純化を図ることが求められる時もあろう。今後髙田君には、たとえば、近世法史研究者・実定法研究者との共同研究や意見交換の機会を増やす等、近世法・近代法を通した、法の歴史を語る更なる新しい課題と方法の発見に精進して研究に邁進して欲しいと考えている。 以上、髙田君の提出した学位請求論文の評価を述べ、いくつかの課題を指摘した。尤もそれらの課題は日本近代法史研究者としての髙田君に対するわれわれの期待の大きさを示すものであり、本論文の価値をいささかも損なうものではない。同君が本論文で示した歴史叙述の方法論や分析手法は、慶應において連綿と培われてきた史料実証の伝統を踏まえた説得力を備えつつもそれを建設的に発展させたものであり、その結果として、特に法制史研究者にとって重要かつ新しい問題提起となっているものと思料する。本特 別 記 事167論文の学術的成果と価値は極めて大きいものであることは疑いない。 したがって、審査員一同は一致して、髙田久実君に博士(法学)(慶應義塾大学)の学位を授与することがふさわしいと判断し、その旨、法学研究科委員会に報告するものである。二〇二五(令和七)年四月一八日主査 慶應義塾大学法学部教授 岩谷 十郎法学研究科委員 副査 慶應義塾大学法学部教授 出口 雄一法学研究科委員・博士(法学) 副査 慶應義塾大学法学部准教授 薮本 将典
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山本みずき君学位請求論文審査報告
特 別 記 事147期の英米関係を論じた小南有紀君の本論文における分析は、今後の日本における英米関係史研究の発展の不可欠な基礎となるであろう。以上のような理由からも、審査委員一同、本論文が博士学位(法学、慶應義塾大学)を授与するに値する十分な水準であると判断する。二〇二五年二月二七日主査 慶應義塾大学法学部教授 細谷 雄一法学研究科委員・博士(法学) 副査 慶應義塾大学法学部教授 森 聡法学研究科委員・博士(法学) 副査 慶應義塾大学名誉教授 田所 昌幸博士(法学) 山本みずき君学位請求論文審査報告一 論文の構成 山本みずき君の博士論文「越境するファシズム――イギリスにおける政治的急進主義と社会秩序、1932~1940年」は、戦間期イギリスにおけるイギリス・ファシスト連合(BUF)に代表される政治的急進主義の台頭と、既存の社会秩序と議会制民主主義を擁護するイギリス政府の対応の相互作用に光を当てた、イギリス政治史研究である。 一九三〇年代のヨーロッパ大陸では、イタリアやドイツなどいくつかの諸国で民主主義が衰退し、独裁体制や権威主義体制が勢力を拡大していった。他方で、この時代のイギリスでは議会制民主主義に基づく政治体制が維持されて、それらの大陸欧州諸国と対峙していた。このことについて、本論文の中で山本みずき君は、「ソ連に共産主義体制が樹立され、イタリアにファシズム、ドイツにナチズムによる独裁体制が敷かれた二〇世紀前半という時代に、イギリス148法学研究 98 巻 9 号(2025:9)では既存の政治体制に異議を唱える急進主義思想が政治体制として実現することはなかった」(一頁)と論じる。しかしながら、「イギリスでは言論の自由が保障されているが故に、逆説的ではあるが、議会主義を否定するに至ったファシズムや共産主義等の急進的な政治運動の存在が許され、それらが社会で影響力を持つ可能性があった」(同上)のも事実である。 それではなぜイギリスでは、政治的急進主義思想が政治体制として権力を掌握するに至らなかったのか。従来の多くの研究では、イギリスの政治的安定性を「政治文化から自明のものとして保証されていた」とする傾向が見られた。そのような通説的な理解に対して、山本君は、「イギリスの政治的安定性は、従来一般的に理解されてきたように、時間をかけて定着した議会制民主主義という政治文化から自明のものとして保証されていたわけではなく、警察、内務省、外務省そして情報機関のMI5(保安局)を中心としたイギリス政府諸機関による、既存秩序を維持しようとする政策の帰結として保持されていた」(二頁)と、本論文で主張している。それを実証するために山本君は、イギリスにおける外務省史料、ロンドン警視庁史料、財務省史料などに加えて、近年ようやく公開が進んだインテリジェンス組織である保安局史料、シェフィールド大学図書館が所蔵するイギリス・ファシスト連合関連文書、さらにはバーミンガム大学図書館所蔵オズワルド・モーズリー文書や、ケンブリッジ大学チャーチル・アーカイブス・センター所蔵のロバート・バンシタート文書などの私文書も幅広く活用して、急進的政治運動の影響力拡大の可能性と、それを警戒して既存の秩序の維持を試みる政府の諸機関の政策との間の相互作用を丁寧に叙述している。これは、従来の一九三〇年代イギリス政治史研究の一般的理解を修正する重要な学問的貢献といえる。 オズワルド・モーズリーが率いたイギリス・ファシスト連合の運動が、ファシズムのイタリア政府やナチズムのドイツ政府と結びつく懸念に対して、イギリス政府は対策を講じていた。警察及び内務省は治安維持の観点から暴力的手段を講じる政治運動を抑制しようとする一方で、外務省及びMI5は、BUFが体制転覆を狙う外国政府と内通していることを警戒し、安全保障上の脅威となりかねないことを危惧していた。このように、BUFの政治活動に起因する脅威の性質について、イギリス政府内では異なる見解が併存していた。さらには、宥和政策を進めるネヴィル・チェンバレン首相と、よりいっそう厳しくナチズムやファ特 別 記 事149シズムとBUFの連鎖を警戒するウィンストン・チャーチル首相と、政治指導者によってそれへの対応も異なっていた。イギリス政府が政策決定をする上での組織間のさまざまな脅威認識や対応策の齟齬や異同について、一次史料をもとに丁寧に整理し、その全体像を描く本論文での試みは、イギリス政治史研究における大きな貢献である。 本論文は、本文と註・参考文献をあわせて、一三〇頁からなっている。 論文の構成は以下の通りである。序章(一)問題の背景(二)研究の目的(三)先行研究(四)構成(五)使用史料第一章 ブリティッシュ・ファシズムの台頭――議会制民主主義のオルタナティブとしての急進主義運動はじめに第一節 オズワルド・モーズリー評価の変容第二節 議会制民主主義への懐疑第三節 経済危機と統治機構改革構想第四節 「若い国家主義者による新しい政党」の画策(一)ニュー・パーティの設立(二)小選挙区制の障壁第五節 イギリス・ファシスト連合の設立と議会制民主主義批判第六節 「イングランドにファシズムは必要か?」おわりに第二章 越境するファシズム――ダイアナ・ミットフォードとイギリス・ファシスト連合のナチスへの接近はじめに第一節 流動化するイギリスの政治文化(一)政治文化の変容(二)開かれた社交界第二節 ダイアナとモーズリーの邂逅第三節 ヒトラー政権成立の陰で第四節 イギリス・ファシスト連合とナチスの架橋おわりに第三章 イギリス・ファシスト連合とイタリア――内政干渉の境界をめぐってはじめに150法学研究 98 巻 9 号(2025:9)第一節 国境を越えるファシズム第二節 資金流入経路の調査と省庁間の調整第三節 公共秩序法の成立おわりに第四章 連動する脅威認識――イギリス政府の対ドイツ情勢認識とイギリス・ファシスト連合への対応はじめに第一節 ヒトラー政権の誕生と情報収集ネットワークの構築第二節 国籍をめぐる包摂と排除のポリティクス(一)ナチス・ドイツの対英工作活動(二)出生地主義とナチスの陥穽(三)ナチスの民族統合政策(四)領域と民族第三節 イギリス・ファシスト連合とドイツの影響力の増大第四節 MI5によるヒトラーの軍事戦略の分析と対応おわりに終章参考文献一覧二 論文の概要 以下、本論文の概要を述べる。 第一章では、「ブリティッシュ・ファシズムの台頭――議会制民主主義のオルタナティブとしての急進主義運動」と題して、戦間期イギリスにおいて旧来の議会制民主主義に対する批判が高まり、経済危機の中からモーズリーが指導するイギリス流のファシズムが生成された過程を明らかにしている。山本君は、「戦間期のイギリスでは、それまで二大政党の一翼を担っていた自由党が衰退し、労働党が台頭する過渡期にあったために、単独で過半数を獲得できる政党がなくなり、その結果として政党間の立場の調整に時間を要する事態が生じていた」(四六頁)ことに注目する。その結果、第一次世界大戦後に急激に変化するイギリス社会の諸問題に既存の政党が迅速に対応できないことへの不満が募っていった。モーズリーの目には、議会で繰り広げられる討論が目前の社会の要請に応えていないように映った。それゆえモーズリーは、「真の自由主義とは経済的自由である」(四八頁)と主張して、経済危機を克服するために集権的な政治体制を打ち立てるべく、議会討論の廃止を訴えていた。そこで山本君は、議会制民主主義のオルタナティブとしてモーズリーの政策が構想された過程に特 別 記 事151着目し、「ファシズム」がこの時代のイギリスで、既存の政治体制に代わる一つの処方箋として比較的肯定的に受容されていく過程を、同時代の政治家や知識人の私文書や著述を用いて論じている。議会制民主主義の母国イギリスにおいても、戦間期には議会政治に対する批判が噴出していたことが明らかにされている。このような時代の中で、モーズリーは「イギリス第一(Britain First)」をスローガンに掲げていた。 第二章では、「越境するファシズム――ダイアナ・ミットフォードとイギリス・ファシスト連合のナチスへの接近」と題して、モーズリー率いるイギリス・ファシスト連合がナチス・ドイツとどのような関係を構築したのかを明らかにする。その際に、モーズリーの二人目の妻であり、モーズリーとヒトラーを架橋する役割を担ったイギリス人貴族のダイアナ・ミットフォードに注目している。ここでは、ダイアナ・ミッドフォードとオズワルド・モーズリーの活動に対して、ゲッベルスなどのナチスの幹部が関心を示し、経済的誘因を提供して接近を試みたこと、そしてそれを通じてイギリス社会に自らの影響力やイデオロギーを浸透させることを試みていたことを、ゲッベルスの日記などドイツ側の史料も用いて明らかにした。ダイアナ・ミッドフォードは、いわば、イギリス・ファシスト連合とナチスとの間を「架橋する」重要な役割を担い、それによってファシズムの越境を可能ならしめた。他方で、ナチスとの邂逅と連携は、後にイギリス政府の情報機関がモーズリーのイギリス・ファシスト連合の運動に安全保障上の脅威認識を持つように至る重要な転換点となる。そのような連携が始まる契機として、第一次世界大戦後のイギリス文化の変容、とりわけ階級社会の動揺と女性の政治参加の拡大が大きな意味を持っていたことが重要な点であることを、山本君は指摘している。いわば、第一次世界大戦後の政治文化の変容、社会階層の動揺、そして政治参加の拡大によって、既存の政治秩序が大きく揺らぎ、新しい政治運動が浮上していったのだ。 第三章では、「イギリス・ファシスト連合とイタリア――内政干渉の境界をめぐって」と題して、一九三〇年代半ば以降、イタリアのムッソリーニがモーズリーのイギリス・ファシスト連合に資金提供を行い、イギリスとイタリアにおける二つのファシズム運動が経済的な動機を主要な要因として接近した経緯を明らかにしている。そしてその過程で、ムッソリーニ率いるイタリア・ファシスト党のイデオロギーと政治的影響力がイギリス国内に浸透すること152法学研究 98 巻 9 号(2025:9)を、安全保障上の脅威として関係省庁が認識するに至る経緯が論じられている。これまでの政治史研究においては、そのような資金提供の実態は必ずしも史料的裏付けを持って論じられてこなかった。しかし二〇一三年に公開された内務省史料によって、イタリア政府側のムッソリーニおよび駐英イタリア大使グランディが、モーズリーへの資金提供を認める手紙が公開され、両者の経済的な繫がりが明らかになった。のみならず、ムッソリーニはモーズリーへの資金提供の見返りとして、親イタリア的な言説をイギリス内で醸成するような工作活動を掛け合っていたことも明らかとなった。ファシズムが国境を越える上で、経済的な動機が大きな位置を占めていたことを本論文が明らかにしたことは、ファシズムの国際的な連携を実証する上での重要な貢献といえる。同時にそれは、イギリス国内において、モーズリーの急進主義的な政治運動が徐々に、イギリス政府諸機関の警戒と監視の対象となっていくことを意味していた。イギリス政府はイタリア政府による「内政干渉」を問題視しながらも、それを内政干渉として食い止める法的根拠を持たず、結局は論理に手を加え、治安維持の観点から公共秩序法を成立させ、公道での活動を制限するという方策をとるに至った。 第四章では、「連動する脅威認識――イギリス政府の対ドイツ情勢認識とイギリス・ファシスト連合への対応」と題して、対外脅威であるナチス・ドイツと国内の脅威であるイギリス・ファシスト連合という二つの異なる脅威が連動して、イギリス政府にとっての安全保障上の脅威と化していく過程を論じる。一九三六年前後の時期に、イギリス外務省、MI5、駐独イギリス大使館の関係各所は、それぞれ異なる視点から、ナチス・ドイツの対英工作活動について情報を収集していた。それは、ナチス・ドイツの影響力がイギリス国内に浸透することが深刻な脅威として警戒されていたからであった。実際には、一九三六年の公共秩序法の制定により、イギリス・ファシスト連合の活動は制限され、社会的支持基盤も弱まっていた。それにも拘わらず、イギリス政府は第二次世界大戦に至るまで、イギリス・ファシスト連合や指導者モーズリーの監視を続けていた。最終的には、戦時立法を通じて防衛規則18 Bを制定し、モーズリーを拘束することでイギリス・ファシスト連合を瓦解させた。モーズリーのファシズム運動とナチス・ドイツの結びつきに着目し、それをイギリス政府がどのように監視し、分析したのか、なぜ脅威と見做したのかを本論文は明らかにしている。その上で、「イギリスは、社会秩序と国特 別 記 事153家安全保障を守り抜く体制を構築し、戦時体制の準備を進めていった」ことを、山本君は的確に論述している。その際に、市民的自由が当時のイギリス政府内で次善の価値へと移り変わっていく過程を、政府関係者の回顧録を用いて明らかにしている点も、本論文の重要な貢献である。三 論文の評価 本論文では、オズワルド・モーズリーが主導する政治的急進主義運動であるイギリス・ファシスト連合が、ドイツやイタリアなどの外国政府とどのように連携し、連動していたのかを、新たに公開された諸史料を用いて論述している。その上で山本君は、「ナショナリズムを強固な基盤とする各国の『ファシズム』運動が、完全に孤立して存在していたのではなく、それらが相互に共振し、連動し、連携していたという事実」(一一五―一一六頁)を明らかにした。本論文のタイトルにあるように、ナショナリズムによって分断されたファシズム運動が実際には人的な繫がりや資金提供などを媒介として、「国境を越えたファシズム」となっていたのであった。それゆえ、「国境を越えたファシズム」の繫がりは強固な政治信条による紐帯を伴わず、各国組織の思惑の違いにより脆弱性をも同時に孕んでいたこともまた本論文は明らかにした。 本論文は、上述のような大きな問題意識に基づき、いくつかの重要な学問的な貢献を行っている。第一には、すでに触れたように、イタリアのファシズムとドイツのナチズムが、モーズリーが主導する政治的急進主義運動であるイギリス・ファシスト連合と連携していたことを明らかにしたことで、近年の研究史上の新しい重要な動向である国際ファシズム運動研究に大きな貢献を行ったことを指摘したい。山本君は二〇一三年以降に新たに公開されたイギリス内務省文書やMI5のインテリジェンス関連文書、モーズリーの個人文書を用いることで、イタリアからBUFへと実際に資金提供が行われていた事実を明らかにした。国境を越えてファシズム運動が共鳴し、連携していたことが明確になったのである。他方でそれは、イデオロギー的な親和性である以上に、経済的誘因に基づいた関係であるが故に脆弱性を有していた。いわばファシズム運動の国際的な連携の実態と脆弱性の双方を明らかにしたことで、従来とは異なる新しい視座を提供した意義は大きい。 第二には、従来は、ファシズム研究と、イギリス内務省の政治的急進主義への対策および政策に関する研究が異なる視座と史料を基礎として進められてきたことに対して、154法学研究 98 巻 9 号(2025:9)本論文ではむしろそれら双方の視座を包摂し、その相互作用に注目することで、従来よりも奥行きのある広い視座からの政治史研究となったことを指摘したい。前者は主に政治思想史研究の文脈に位置づけられ、後者はイギリス政治史研究の文脈に位置づけられるが、本論文ではそれらをインテリジェンス史の視座によってつなぎ合わせて、スケールの大きな視点を提供している。その独創性と総合性は高く評価されて良い。 第三には、イギリス政府内におけるイギリス・ファシズム運動に対する政策形成をめぐり、内務省、MI5、ロンドン警視庁、外務省などが異なる脅威認識を有し、それらがどのように摩擦を生み、また調整されていったのかを検討することで、戦間期イギリスの政策決定過程について実証的に新しい視座を提供したことを指摘したい。現代の政治史研究においては、内務省史、外交史、インテリジェンス史など、異なる方法論で研究が行われる傾向が強まる中で、本論文は方法論的に独自のアプローチと、多角的および総合的な視座を提供することで、学術的な大きな貢献となっている。 他方で、このようにスケールが大きく、独創性が強いことがまた、いくつかの学問的な課題にもなっているというべきである。以下、いくつかの気になる課題について指摘したい。第一には、各章の視座を総合するための分析枠組みの提示が不十分に感じられる点である。第一章はモーズリーの視座、第二章はダイアナ・ミッドフォードの視座、第三章はイギリス内務省の視点、第四章は外務省およびMI5の視座が中心となっており、上述のようにそのような多角的な視座の提示が本論文の強みとなっているが、その強みを十分に活かすためにもそれらを包摂する総合的な分析枠組みを序章で提示することが求められる。それぞれの章で示された問題意識は、一つ一つがいっそうの展開が可能な興味深いものであるだけに、多様なアクターがどのように交錯し、どのように相互の関係を構築し、またどのようにその関係が変容していくのか。史料的にそれらを明らかにする制約がありながらも、本論文の全体を貫く統一性のある枠組みやパースペクティブを提示することで、本論文の完成度はさらに高まったであろう。 第二には、本論文が対象とする時期や視座を超えたものではあるが、一九四〇年から一九四五年までの第二次世界大戦中に、実際にどのようにイギリス政府がイギリス・ファシズム運動とドイツやイタリアとの連携を防ぎ、イギリスの議会制民主主義の政治体制の擁護を実現していったの特 別 記 事155か、それ自体の記述をもう少し加えることで、本論文の問題設定に対してより適切な結論的な記述を提示することができたのではないか。戦争勃発前とその後では、ドイツやイタリアのイギリス国内への干渉、そして攪乱の必要性や方法は変化していったことであろう。そもそも、戦時中は必然的に国民の自由は一定程度制約され、政府内での政策決定も戦時内閣での意思決定のように変更が加えられるのが一般的である。一九三九年九月の第二次世界大戦勃発と、一九四〇年五月の西部戦線での戦闘開始、さらにはそれを受けてのチャーチル政権成立によって、はたしてどのように変化が見られたのか。本論文でも第4章や終章で触れられているが、今後の研究上の大きな課題となるであろう。 これらの課題は、しかしながら、本論文の問題設定の外側に位置する部分が大きく、その本質的な学問的意義を損なうものとはいえない。むしろ、今後検討をするべき課題として位置づけるべきである。山本みずき君の、本論文における独創的視座の提示や、野心的な方法論的試みは、政治学的に大きな価値を持つものといえる。以上のような理由からも、審査委員一同、本論文が博士学位(法学、慶應義塾大学)を授与するに値する十分な水準であると判断する。二〇二五年二月二七日主査 慶應義塾大学法学部教授 細谷 雄一法学研究科委員・博士(法学) 副査 慶應義塾大学名誉教授 田所 昌幸博士(法学) 副査 東京大学法学政治学研究科教授 板橋 拓己博士(法学)
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小南有紀君学位請求論文審査報告
特 別 記 事139小南有紀君学位請求論文審査報告一 論文の構成 小南有紀君の博士論文「新冷戦期の英米同盟――国際危機をめぐる英国の同盟管理、1979~1983年」は、アメリカの最も重要な同盟国と一般的にみなされているイギリスが、一九八〇年代前半を中心とした新冷戦期において、どのようにアメリカとの同盟関係を管理したのかを検討する、イギリス外交史研究である。 第二次世界大戦後の英米関係は、しばしば「特別な関係(Special Relationship)」と呼ばれ、イギリスはアメリカの最も緊密な同盟国とみなされることが多い。実際に、核兵器やインテリジェンス、基地提供や防衛装備開発などの分野に見られるように、イギリスは平時から米国と緊密な安全保障協力を行っており、さらにイギリスはアメリカの軍事行動に幾度も参加してきた。とりわけ新冷戦期および冷戦終結期のマーガレット・サッチャー英首相とロナルド・レーガン米大統領の時代の英米関係は、外交史家のジョン・ダンブレルが指摘するように、「並外れた(extraordinary)」ものであり、「とても、とても特別な関係」とみなされてきた。だが、史料公開が進み、近年の英米関係史研究ではこのような見解が修正されて、実際の外交交渉では英米間で多くの摩擦が見られた史実が言及される。それゆえ、歴史家のリチャード・アルドゥスはこれを、「困難な関係(difficult relationship)」と位置づけている。 小南君は本論文において、これまで一九八〇年代の英米関係史研究が主にサッチャーとレーガンという首脳間の関係に注目して検討されてきたのに対し、首相に加えて外相および外務省の役割に光を当てて再検討を行った。というのも、「首相が対米協力に消極的な姿勢を示した時、米国との同盟管理を担ったのが外相および外務省だった」(八頁)からである。すなわち、「従来は、サッチャーが盲目的に対米協調に邁進する一方で、外相および外務省がそれに歯止めをかける役割を果たしたといわれてきた」のだが、「実際には、外相および外務省が英国の対米協力を推進しようとした側面があったのである」(同上)と、本論文の中で論じている。同時に小南君は、外相および外務省が、対米関係の管理に主導権をとってきたわけではないことにも言及する。というのも、「外務省の影響力は、多分に首140法学研究 98 巻 9 号(2025:9)相と外相の関係に依存していた」(九頁)からである。それゆえ本論文では、イギリス国立公文書館の首相府関連文書や外務省関連文書に加えて、マーガレット・サッチャー財団所蔵のサッチャー個人文書も利用して、新冷戦期英米関係における「首相と外相」との関係に注目する。従来の、この時期の英米関係史研究の多くが、サッチャー首相とレーガン大統領という強い指導力を有していた二人の首脳レベルでの関係に焦点を当てていたのに対して、小南君が本論文で首相と外相の関係に注目し、「首相が対米協力に消極的な態度を示す時、英国の対米協力を牽引しようとしたのが外相および外務省であった」(一二〇頁)ことを明らかにしたことは、重要な学問的意義があるといえる。 本論文は、本文と註・参考文献をあわせて、一四〇頁からなっている。 論文の構成は以下の通りである。序章1.問題の所在(1) 研究の目的(2) 英米二国間関係は「同盟」なのか(3) 新冷戦という時代2.先行研究の検討3.本研究の視点(1) 首相と外相の関係(2) 大西洋同盟の中の英米同盟(3) 第三世界――中東とラテンアメリカ4.本研究の構成第1章 本研究の歴史的背景――第二次世界大戦期から1970年代末まではじめに1.英米同盟と大西洋同盟の成立2.世界的役割の見直し3.デタントと英国外交4.英米関係の摩擦と協調おわりに第2章 新冷戦初期の英米同盟――欧州とペルシャ湾岸地域をめぐる冷戦、1979~1981年はじめに1.新冷戦の幕開け(1) ユーロミサイル危機の顕在化とNATO「二重決定」(2) 駐イラン米国大使館人質事件特 別 記 事141(3) ソ連のアフガニスタン侵攻2.対米協力の逡巡(1) 対ソ経済制裁(2) 国連総会決議とモスクワ・オリンピック(3) イラン問題の再燃(4) アーミラ哨戒3.アフガニスタン中立・非同盟構想――米欧の協働と対ソ圧力おわりに第3章 フォークランド紛争をめぐる英米同盟――危機の中の駐米大使、1982年はじめに1.大使外交を支えるもの(1) パリからワシントンへ(2) 大使館運営と社交の場2.米国からの支持を求めて(1) 外相の交代(2) メディアと世論(3) 議会3.燻る対英批判と紛争の終結おわりに第4章 レバノン駐留多国籍軍と英米同盟、1982~1983年はじめに1.イスラエルのレバノン侵攻と多国籍軍の派遣2.多国籍軍への参加(1) 英国への参加要請とサッチャーの反対(2) レバノン副首相兼外相の訪英と英国の参加決定3.深まる米国への不信感(1) 英部隊の活動開始と駐留延長(2) 米国の介入拡大(3) 冷戦の「闘い方」をめぐる相違おわりに――レバノンからの撤退とその帰結第5章 大西洋同盟の結束――INF配備とグレナダ侵攻をめぐる英米同盟、198 3年 はじめに1.欧州とカリブにおける冷戦(1) 米欧の協調と対立――「二重決定」と天然ガス・パイプライン建設問題(2) ソ連との対話の模索(3) グレナダ独立から人民革命政府の成立まで2.グレナダ侵攻と「反米主義」の過熱142法学研究 98 巻 9 号(2025:9)(1) 英米政府間の対立(2) 西欧世論の対米批判――反核運動との共振3.大西洋同盟の結束を求めて(1) 西欧へのINF配備(2) 英米同盟の修復に向けておわりに終章1.「特別な関係」の復活?2.新冷戦から冷戦終焉へ参考文献一覧二 論文の概要 以下、本論文の概要を述べる。 序章においては、本論文の全体の枠組みを提示する上で、「英米同盟」という特殊な同盟関係や「新冷戦」という国際関係史上の時期区分を説明した上で、研究の目的を明示している。また、先行研究を概観した上で、本研究の独自の視座として「首相と外相の関係」、「大西洋同盟の中の英米同盟」、そして「第三世界――中東とラテンアメリカ」への注目という三つの視点を提示している。 続いて、第1章において、新冷戦期の英米同盟を理解する上での背景として、英米同盟が形成された第二次世界大戦期からサッチャー政権が発足する一九七〇年代末までのイギリス外交の史的展開を概観している。ここではその期間を四つの時期に区分している。第一に、第二次世界大戦期の戦時協力を契機として、英米同盟と大西洋同盟が成立したことを論じている。第二には、戦後に英国経済が低迷する中で、イギリスが世界における自らの役割を見直し、スエズ以東撤退を決定するまでの過程をたどる。第三には、一九六〇年代末から超大国デタントと欧州デタントが進展する中で、イギリスがデタントに対する慎重姿勢と対ソ不信を抱いていたことを指摘している。そして第四に、一九七〇年代前半に英米間に摩擦が生じながらも、サッチャー政権発足までに両国関係はすでに改善に向かった時期を検討する。 第2章では、新冷戦初期(一九七九~一九八一年)の英米同盟を論じており、その上でユーロミサイル危機、イラン問題、アフガニスタン問題の三つの重要な外交問題を扱っている。これら三つの問題は、デタントから新冷戦への国際環境の変容を決定的なものにしたと同時に、英米同盟の結束が試された問題でもあった。新冷戦という国際環境において、アメリカはそれまで以上に同盟国の協力を必要特 別 記 事143としており、サッチャー政権のイギリスとしては同盟国としての価値を示す好機でもあった。他方で、イギリスは盲目的に対米協力を追求したわけではなかった。この章では、サッチャー首相が、対米協力が英国の経済的利益を損なう場合には、米国の要請を拒否することも厭わない姿勢をとることがあったことを示している。 第3章は、イギリスがアメリカからの協力を要請する事例として、フォークランド紛争(一九八二年)を扱っている。イギリスが、本土から遠く離れたフォークランド諸島を奪還するためには、アメリカの協力が不可欠であり、サッチャー首相自ら、「われわれは最初から、結末を左右するのはアメリカの態度であることを確信していた」と論じていた。そのようなことからも、フォークランド紛争では、サッチャー首相自らが外交政策の舵取りを担い、外務省は政策決定過程における主導権を喪失した。だが、それで外務省の役割が失われたわけではなかった。ニコラス・ヘンダーソン駐米大使および大使館は、米連邦議会やメディア、世論に精力的に働きかけ、アメリカの対英支持を取りつけることに成功したのである。他方で、キャリントン外相の後任となったフランシス・ピム外相は、フォークランド紛争への対応をめぐってサッチャーと対立し、政府内の政策決定に影響力を持つことはできなかった。フォークランド紛争以降、首相と外相の信頼関係を梃子にして、外務省が外交政策を主導することは著しく困難となったのである。 第4章では、米主導のレバノン駐留多国籍軍への英部隊の参加について検討する。レバノン派兵をめぐるイギリスの政策決定過程を本格的に検討した研究はほとんど見られないながらも、この問題は英米関係をめぐる首相と外務省との関係を検討する上での重要な事例となっている。この時期のイギリスにとって多国籍軍参加は、財政的な負担を増やすものであった。それゆえサッチャー首相はそこへの参加に否定的だった一方で、政府内で最も参加に積極的だったのが外相および外務省であった。外務省の狙いは、対米協力によって米国の政策への影響力を確保することだったが、首相と外相の対立を背景として、外務省は政府内の政策決定を主導できなかった。それゆえ、最終的には「首相の決断」として、多国籍軍に参加することとなったのである。その上で、単独主義的行動を辞さない米国に対して、英政府内では不満が鬱積しつつも、対米関係への配慮ゆえに英部隊の撤退に踏み切れない様子が、本章では論じられている。英米間の「特別な関係」が復活したとされる一九八〇年代において、米国主導のレバノン駐留多国籍軍への144法学研究 98 巻 9 号(2025:9)英国の参加はそれを象徴する事例の一つに数えられてきた。だが、小南君によれば、「英国の政策決定者たちにとって『特別な関係』とは、ひとたび協力が実現しなければ、儚くも崩れ去ってしまうものだった」(九一頁)のである。 第5章では、グレナダ侵攻によって英米同盟および大西洋同盟が動揺する中で、イギリスがいかにINF配備に向けた外交を展開したのかを論じている。一九八三年一〇月の米国によるグレナダ侵攻は、外務省のとある文書の言葉を借りれば、「英米関係にとっての危機」(一一八頁)をもたらした。さらに、グレナダ侵攻を受けて、「二重決定」に基づくINF配備を控える西欧諸国でも対米批判の声が高まり、大西洋同盟全体が大きく動揺することとなった。INF配備が必要だとのサッチャーの認識は揺るがなかったものの、同時に彼女は公然と米国を批判することを厭わなかった。これに危機感をつのらせた外相および外務省は、INF配備での英米の協力を梃子にして、関係修復を図ることとなる。そして、英米間でINF配備での協力が維持されたことが、英米同盟が修復に向かう足掛かりとなったのであった。三 論文の評価 近年のイギリス外交史研究の最前線は史料の公開が進む中で一九八〇年代の新冷戦から冷戦終結期となっており、本論文はそのような新しい研究動向のなかに位置づけることができる。とりわけサッチャー政権期の外交、その中でも特に英米関係に関する研究については、本論文の序章の先行研究紹介で言及されるように、優れた多くの新しい研究成果が見られる。そのようななかでも本論文では、いくつかの重要な学問的な貢献を行っている。以下、本論文の意義を指摘したい。 第一に、従来の多くの研究が専らサッチャー首相とレーガン大統領との個人的な関係に英米関係を還元して論じることが多い中で、本論文ではむしろ「首相と外相との関係」に注目して外相および外務省の役割にも注目する意義は大きい。その上で小南君は、外相および外務省が外交におけるイニシアティブを発揮する上で、首相との良好な関係が不可欠である重要性を指摘する。このことは、本論文が示すように、サッチャー首相との良好な関係の構築に成功したキャリントン外相が一定の影響力の行使に成功し、他方でピム外相がそれに挫折して影響力を失ったことを考慮すれば、適切な指摘といえるだろう。特 別 記 事145 議院内閣制のイギリスにおいて、外相および外務省の影響力それ自体が独立して存在するわけではない。一定の制度的制約の下で、イギリスの外相および外務省が影響力を行使する上では、緊密な首相との協力が不可欠となる。本論文では、外務省が対米関係強化を強く志向するサッチャー首相のイニシアティブを抑制したというよりも、むしろ水面下で英米関係の強化へ向けて重要な役割を担っていたことを明らかにしている。小南君が論じるには、「首相就任当初は外交での知識や経験をほとんど有していなかったサッチャーではあるが、外交政策への彼女の関心は高かった」ために、「外務省が政府内の政策決定を主導できるか否かは、外相が首相を懐柔できるかどうかにかかっていた」(一二一頁)のである。「政策決定過程における外務省の影響力が相対化されながらも、外交の最前線では依然として外交官が不可欠の役割を担い続けたことを示しているといえるだろう」(同上)という小南君の指摘は、バランスのとれた視点であり、適切なものといえるだろう。 第二には、表面的にはサッチャー首相とレーガン大統領との間で緊密な友情が覆っていたように見えた英米間の「特別の関係」も、実際には多くの緊張を孕むものであって、常に慎重で困難な同盟管理が強いられていたことを明らかにしたことは、重要な学問的な貢献といえる。そのような英米関係の緊張のなかでもとりわけ重要であったのが、イギリスにとって旧植民地であり、コモンウェルス諸国の一員であったグレナダに対するアメリカの軍事侵攻であった。小南君によれば、「グレナダ侵攻が英国の政策決定者たちに突きつけたのは、米国はいざとなれば同盟国の意に反してでも行動するという現実だった。英国の対米影響力は、たとえそれが他の同盟国以上だったとしても、政策決定者たちが期待していたものからは程遠かったのである」(一二二頁)。日本においてしばしば、同盟関係のモデルとして言及されることが多い英米「特別の関係」の実態とは、国益と国益が衝突するなか、慎重かつ賢明な同盟管理が要求される、「困難な関係」(アルドゥス)であった。それゆえ、本論文において示される、中東やラテンアメリカなどの第三世界における英米間の同盟管理の実態から学ぶことは多い。 他方で、本論文にも課題が見られないわけではない。以下のように、さらなる検討が必要な側面もいくつか見られる。第一には、外務省内での意思決定の過程が必ずしも丁寧に整理されていない点が指摘できる。本論文の焦点が、「首相と外相の関係」および「外相や外務省」の役割であ146法学研究 98 巻 9 号(2025:9)るゆえ、確かにサッチャー首相と彼女の内閣における外相の関係については十分な説明が見られるものの、その外務省の内部は必ずしも「一枚岩」ではなかったはずである。外務省内において、対米関係を優先的に考慮する駐米大使を筆頭とする外交官たちや、コモンウェルス諸国との関係を重視する外交官や外務官僚など、外務省内の官僚政治についてより詳細な整理があることが望ましかった。たとえば、ヘンダーソン駐米大使はその職務上の必要性から英米の「特別な関係」を優先的に考慮するであろうが、この時にイギリス外務省内で対米関係を優先的に考慮することへの反発や抵抗がどの程度見られたのか、本論文では明らかではない。また、サッチャー政権期においては、元外交官でサッチャー首相秘書官を務めたチャールズ・パウエルのような、首相官邸におけるアドバイザーが重要な役割を担ったことがしばしば指摘されることがある。「首相と外相との関係」に加えて、「首相府と外務省」との組織的な関係や、その権力関係の実態についても、政治学的には重要な問題と言えるだろう。 第二には、新冷戦期の国際環境の推移と、イギリスにとっての防衛政策との連関もまた重要な背景であろうが、その点についての本論文での記述が十分ではなかった。すなわち、イギリスにとっての対米協力の重要性の根拠が、小南君が序章のなかで論じているように、核協力やインテリジェンス協力に大きく依存している中で、イギリスをめぐる安全保障環境の悪化は必然的にイギリスの対外政策における対米協力の重要性を向上させる要因となったはずである。だとすれば、イギリスの首相や外相個人の対外姿勢やイニシアティブのみならず、それを規定する上での安全保障環境、とりわけ新冷戦期のソ連の軍事的脅威の増大へのイギリス政府の安全保障認識もまた、イギリスの対外関係上で重要な作用を果たしたのではないだろうか。そのような、軍事関係と外交関係の連動は、英米関係を考察する上での重要な要素とみることができるはずだ。この関連で、欧州防衛をめぐる英米関係が、欧州域外の問題をめぐる英米関係にいかなる影響をもたらしたかという視点からの検討を深める余地があるといえよう。 とはいえ、これらの課題は必ずしも本論文において中核的な問題意識として位置づけられているわけではなく、本論文の課題を超えたところに位置するものであろう。とりわけ外務省と国防省、イギリス軍との関係を論じるためにはおそらく本論文とは別の分析枠組みでの研究が必要となり、今後の小南君の研究の課題として期待したい。新冷戦特 別 記 事147期の英米関係を論じた小南有紀君の本論文における分析は、今後の日本における英米関係史研究の発展の不可欠な基礎となるであろう。以上のような理由からも、審査委員一同、本論文が博士学位(法学、慶應義塾大学)を授与するに値する十分な水準であると判断する。二〇二五年二月二七日主査 慶應義塾大学法学部教授 細谷 雄一法学研究科委員・博士(法学) 副査 慶應義塾大学法学部教授 森 聡法学研究科委員・博士(法学) 副査 慶應義塾大学名誉教授 田所 昌幸博士(法学) 山本みずき君学位請求論文審査報告一 論文の構成 山本みずき君の博士論文「越境するファシズム――イギリスにおける政治的急進主義と社会秩序、1932~1940年」は、戦間期イギリスにおけるイギリス・ファシスト連合(BUF)に代表される政治的急進主義の台頭と、既存の社会秩序と議会制民主主義を擁護するイギリス政府の対応の相互作用に光を当てた、イギリス政治史研究である。 一九三〇年代のヨーロッパ大陸では、イタリアやドイツなどいくつかの諸国で民主主義が衰退し、独裁体制や権威主義体制が勢力を拡大していった。他方で、この時代のイギリスでは議会制民主主義に基づく政治体制が維持されて、それらの大陸欧州諸国と対峙していた。このことについて、本論文の中で山本みずき君は、「ソ連に共産主義体制が樹立され、イタリアにファシズム、ドイツにナチズムによる独裁体制が敷かれた二〇世紀前半という時代に、イギリス
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堀田主君学位請求論文審査報告
特 別 記 事131特別記事堀田主君学位請求論文審査報告一 論文の構成 堀田主君の博士論文「冷戦後国際秩序をめぐるソ連外交――「欧州共通の家」の模索、1984―1991年――」は、冷戦終結期のソ連のヨーロッパ政策を、ミハイル・ゴルバチョフ書記長が提唱した「欧州共通の家」構想を中心にヨーロッパ国際関係史のなかに位置づけて検討した、ソ連外交史研究である。 冷戦後国際秩序の中で、ロシアをどのように位置づけるかという問題は、現在に至るまでさまざまな摩擦や軋轢を生み出している。アメリカ外交官としてこの問題に対峙したロシア専門家のウィリアム・ヒルによれば、「ロシアも、ヨーロッパの主要国も、そして米国も、ヨーロッパやユーロ・アトランティックの安全保障構造におけるロシアの位置づけを明確にしたり、欧州の主要な安全保障機関にロシアを統合したりすることに成功していない」と論じており、この問題の深刻さを示唆している(一八一頁)。そのような問題意識から、本論文では、ソ連共産党書記長となったミハイル・ゴルバチョフが提唱した「欧州共通の家」構想を、冷戦後国際秩序のなかに自国を位置づける構想として提唱されたものとして、その意義と重要性、そして限界を再検討している。 堀田君は本論文において、ロシア、アメリカ、イギリス、そして欧州連合(EU)などのアーカイブ史料を中心に、膨大な資料を丹念に用いて、冷戦終結の過程におけるソ連外交を、ゴルバチョフ書記長が提唱した「欧州共通の家」に着目して論じている。ゴルバチョフは、ソ連の指導者となる四ヵ月前の一九八四年一二月にはじめて英国下院議会での演説において、「共通の家」としてヨーロッパを描いた。この「欧州共通の家」構想が、冷戦終結の過程のソ連外交において重要な役割を担ったことについては、過去のいくつかの先行研究でも触れられてきた。だが、それらのなかでは抽象的で実現可能性の低い構想と位置づけられることが多かったこの「欧州共通の家」構想を、堀田君はソ連外務省欧州安全保障協力局の内部文書を用いることで、欧州安全保障協力会議(CSCE)プロセスにおける多国132法学研究 98 巻 9 号(2025:9)間交渉と結びつけてその重要性を再検討している。また、それが「ヨーロッパの関係全体における重大な質的変化を目指すプロセス」(ユーリ・デリャービン欧州安全保障協力局長)であったことを明らかにしている(九頁)。 近年、アメリカや西欧諸国のアーカイブ史料をもとにして冷戦終結期をめぐる画期的な外交史研究が数多く刊行されており、堀田君も共訳者として訳出に加わったM.E.Sarotte, Not One Inch: America, Russia, and the Makingof Post-Cold War Stalemate (2022)(メアリー・サロッティ『1インチの攻防――ポスト冷戦秩序の構築』岩間陽子・細谷雄一・板橋拓己監訳、二〇二四年)や、板橋拓己『分断の克服 1989―1990――統一をめぐる西ドイツ外交の挑戦』(二〇二二年)などがその代表的なものである。他方で堀田君は、ソ連外交の視座から、ソ連政府がどのように冷戦後のヨーロッパ秩序を構想し、その実現のために交渉したのかを本論文によって明らかにした。 本論文は、本文と註・参考文献をあわせて、一九二頁からなっている。 論文の構成は以下の通りである。序章第1章 米欧の狭間で――「欧州共通の家」構想の成立、1984―1987年はじめに1.岐路に立つソ連・ヨーロッパ関係2.東西対話の再開3.「新思考」外交の始まり4.核戦力からの解放おわりに第2章 対立の起源――ストックホルム軍縮会議と現地査察問題、1985―1986年はじめに1.ソ連外交における継続性2.外交実務における変化3.継続された言行不一致4.クレムリン内の静かなる対立おわりに第3章 経済協力の模索――EC・コメコン共同宣言と西ベルリン問題、1985―1988年はじめに1.EC・コメコン協定をめぐるソ連の孤立2.「パラレル・アプローチ」の容認特 別 記 事1333.専門家会合の開始4.「領土条項」をめぐる交渉の停滞おわりに第4章 人権をめぐる変化――ウィーン再検討会議とモスクワ人道会議提案、1986―1989年はじめに1.人権をめぐるソ連外交の変化と継続性2.ソ連のモスクワ人道会議提案3.ウィーン再検討会議をめぐるシェワルナゼ外相の奮闘4.米国によるモスクワ人道会議の容認おわりに第5章 対立の深化――CFE条約をめぐるソ連の混乱、1986―1990年はじめに1.通常戦力の削減に向けたゴルバチョフのイニシアティブ2.CFE交渉への道のり3.CFE交渉の開始とブッシュ政権の誕生4.未完の条約おわりに第6章 侵食されるソ連外交――連邦構成共和国によるCSCEプロセス参加問題、1989―1991年はじめに1.クレムリンの誤算2.ソ連外務省の苦慮3.混乱の年の幕開け4.ソ連外交の最期おわりに終章参考文献一覧二 論文の概要 以下、本論文の概要を述べる。 第1章では、「米欧の狭間で――「欧州共通の家」構想の成立、1984―1987年」と題して、「欧州共通の家」構想が浮上してきたその歴史的な経緯を概観する。またこの構想が、ソ連が追求する国際秩序構想として初めて表明されることになる一九八七年四月一〇日のゴルバチョフ書記長のプラハ演説に着目し、ゴルバチョフがこの構想をソ連政府の政策として確立していく過程を論述する。新たにソ連の指導者となったゴルバチョフは、外相であった134法学研究 98 巻 9 号(2025:9)グロムイコの保守的な外交姿勢に苦慮しながらも、次第に東西関係の改善へ向けた新しい試みに挑戦していく。いわゆる「新思考」外交である。本章ではこうしたゴルバチョフの試みを通じて、対米関係と対欧関係の狭間で揺れるソ連外交の変化の過程を詳述している。 第2章から第6章までの章においては、CSCEプロセスに関連する会議や、それが生み出す条約の成立過程に注目することで、冷戦終結期のソ連のヨーロッパ外交の推移を検討している。まず第2章では、「対立の起源――ストックホルム軍縮会議と現地査察問題、1985―1986年」と題して、ストックホルム軍縮会議をめぐるソ連外交の動向を検討している。この会議では、軍縮をめぐる西側諸国の現地査察提案が最大の争点となっていた。本章では、それまで停滞していたこの会議が成功裡に閉幕するにあたって、ゴルバチョフ書記長、シェワルナゼ外相、そして現場で交渉にあたったグリネフスキーがそれぞれ重要な役割を果たしたことを明らかにしている。さらに、このとき抑え込まれた軍部の不満が、最終的にのちの一九九一年八月クーデターにつながっていくことも示している。 第3章では、「経済協力の模索――EC・コメコン共同宣言と西ベルリン問題、1985―1988年」と題して、ECとコメコンという東西二つの地域機構の間の経済協力を模索する動きに着目し、それをめぐるソ連外交を扱っている。冷戦終結期におけるこのような東西間の経済協力をめぐる動きは、CSCEプロセスの外側で生じたものであった。一九七五年のヘルシンキ最終議定書は、「第二バスケット」として東西間の経済、科学技術、環境規定する経済・技術協力を規定していた。しかし、欧州経済共同体(EEC)とコメコンという東西における二つの地域機構の相互不承認により、それまではこの分野での協力をめぐる議論が本格的に進展することはなかった。そのような観点から、本章では、EECとコメコンの関係正常化をめぐる東西交渉の変遷を検討し、その進展の要因には、西ドイツとの二国間関係を重視したゴルバチョフのイニシアティブがあったことを明らかにしている。 第4章では、「人権をめぐる変化――ウィーン再検討会議とモスクワ人道会議提案、1986―1989年」と題して、ストックホルム会議の閉幕から約二ヵ月後に開始された、ウィーン再検討会議と、そこでのモスクワ人道会議提案をめぐるソ連外交を扱っている。安全保障や科学技術協力など、多岐にわたる論点を扱ったこの会議において、その開会から一貫して争点となっていたのが、人道問題に特 別 記 事135関する会議をモスクワで開催するというソ連の提案であった。本章では、このモスクワ人道会議の開催が合意に至った大きな要因として、米国のショルツ国務長官と協調して、西側諸国との交渉に奔走したシェワルナゼ外相の役割を明らかにしている。 第5章では、「対立の深化――CFE条約をめぐるソ連の混乱、1986―1990年」と題して、NATOとワルシャワ条約機構間の通常戦力削減交渉の変遷を辿る。一九七〇年代以降、通常戦力をめぐる協議は中欧相互兵力均等削減交渉(MBFR)として、CSCEプロセスとは別に行われていた。この多国間交渉は長きにわたり停滞し続けたが、一九八九年以降CSCEプロセスに吸収されることとなり、最終的にはCFE条約として結実するに至った。しかし、その過程において、ソ連指導部内でのシェワルナゼ外相の孤立が顕在化することとなった。本章では、東西分断が終わるなかで統合しつつあるヨーロッパとソ連を接続するというシェワルナゼ外交の総決算としてCFE交渉の経緯をたどり、シェワルナゼら政治指導部やソ連外務省と、ソ連軍部との対立が決定的なものになっていく様を跡付けている。 最後に第6章では、「侵食されるソ連外交――連邦構成共和国によるCSCEプロセス参加問題、1989―1991年」と題して、主権を求めて独自の動きを見せるソ連の連邦構成共和国が、CSCEプロセスへの参加を模索する過程を扱う。対応に迫られるソ連外務省は、バルト三国を中心に主張を強める共和国側の動きに対抗し続けた。しかし、一九九一年八月クーデターにおいて、ベススメルトヌイフ外相に加えて、多くの外務官僚が「国家非常事態委員会」の方針に従ったことから、ソ連外務省は窮地に立たされた。ロシア共和国主導による組織の再編や縮小を経て、ソ連外交と表現し得る連邦レベルでの外交交渉の実施は、国家そのものの解体を前にして、事実上の崩壊へと至るのである。三 論文の評価 ゴルバチョフの「欧州共通の家」構想を再検討する堀田主君の本論文は、冷戦後国際秩序をめぐるソ連の構想をヨーロッパ国際関係史の中に位置づけて論じる、冷戦期国際関係史研究における重要な貢献といえる。堀田君は、イギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)大学院の国際史(International History)研究科において修士号を取得しており、冷戦期ソ連外交史研究の世界136法学研究 98 巻 9 号(2025:9)的な権威であるウラディスラヴ・ズボク教授らの指導を受け、最先端のソ連外交史研究に接してきた。そのことが、本論文における議論の基礎となっている。また、イギリスやアメリカにおける一次史料の収集に加えて、依然として制約が残るロシア国内のアーカイブ史料も用いることで、ゴルバチョフや外務省に関連した重要な新しい視点を提示している。以下、堀田主君の本論文における研究上の貢献を指摘したい。 第一に、従来はアメリカ外交史やイギリス外交史、フランス外交史など、西側諸国の視点から論じられることの多かった冷戦終結の過程について、ソ連外交史の視座を用いながら、それをヨーロッパ国際関係史の広い視座の中に位置づけることで、従来の理解を大きく修正していることが指摘できる。ゴルバチョフの「欧州共通の家」構想はこれまでの研究の中でもよく知られていながらも、その内実が曖昧であることもあり、十分に精緻な理解が進んでいなかった。他方で堀田君は、ソ連外務省欧州安全保障協力局の史料を用いてCSCEプロセスと連関させて検討することで、この「欧州共通の家」構想によってより具体的な、「ソ連を不可欠な一部とする統一されたヨーロッパ空間のネットワークを創出する」ことが目指されていたことを明らかにした。そしてそれが、一九八九年以降の中・東欧諸国の体制転換と、東西ドイツの統一という歴史の激動に翻弄されることになるまでの期間に、ソ連による建設的な冷戦後ヨーロッパ秩序構想として重要な位置を占めていたことを明らかにした。それによって、「ソ連のヨーロッパへの統合」が「連邦構成共和国のヨーロッパへの統合」へと転換した、重要な歴史の変化に注目している(一八〇頁)。 第二には、第一の点と関連して、米ソ関係かさもなければドイツ統一問題に集中する傾向が強かった冷戦終焉に関する先行研究と比して、ソ連とフランスの交渉が詳しく議論されており、多くの事実的発見がなされている点は高く評価できる。ソ連とフランスは、異なる思惑を抱えながらも、ヨーロッパにおいてより包摂性と一体性を重視した冷戦後国際秩序構想を提唱するという共通の立場を有していた。そのような視点から冷戦終結の過程を再検討することは、現代的な意義のある重要な試みであろう。 第三に、これまでゴルバチョフ書記長を中心に検討がされてきた「欧州共通の家」構想や、それを冷戦終結期のソ連外交を、外相や外務省を中心に検討することで新しい視座を提供していることを指摘したい。すなわち、外相や外務省を中心に位置づけることで、ソ連外交がより多様な利特 別 記 事137益や視座を調整する中で組織的に展開していったことが明らかにされている。本論文が扱う時期である一九八四年から一九九一年までの間、アンドレイ・グロムイコ、エドゥアルド・シェワルナゼ、アレクサンドル・ベススメルトヌイフ、ボリス・パンキンという外相、そしてその後の短期間のシェワルナゼ対外関係大臣が、急激に変化する国際環境にどのように対応し、また国内政治的な要請にどのように対処したのか、またそのようななかでどのように政策を立案していったのかが、本論文を通じて明らかとなっており、大きな学術的貢献といえる。 第四に、本論文では当該時期のソ連外交について、軍縮(第2章および第5章)、経済(第3章)、人権(第4章)などの領域に即して分析することで、冷戦終焉の多層性・多面性を明らかにしている点が指摘できる。従来の冷戦終焉期の研究が、これらのなかでいずれか一つの領域に注目しがちであったことに鑑みれば(たとえばCSCEの「ヘルシンキ効果」を強調する研究など)、本論文はソ連外交に絞って冷戦終焉の多層性を浮き彫りにすることに成功したと言える。 他方で、本論文にはいくつかの課題も見られる。第一には全体の構成である。本論文の副題にあり、中心的な研究対象である「欧州共通の家」構想それ自体を直接扱う章は第一章のみであり、第二章以降の各章では冷戦後国際秩序をめぐりソ連外交がどのように変転する国際情勢に対応したのかを、多角的に検討している。この前者と後者について、それがどのように連関しているのか、より統一的な分析枠組みによって一貫性をもって検討することで、論文としての完成度がより高いものになったのではないか。各章が、軍縮、経済協力、人権といった多様な政策領域を扱っていることは本論文の長所でもあるが、章と章の間の繫がりが必ずしも明瞭ではなかった印象がある。 第二には、この時期におけるソ連外交の政策決定過程について、論文の中では必ずしも明確に提示されていないように見受けられる。ソ連共産党書記長のゴルバチョフの下で、外相、外務官僚がどのように連携して外交政策を形成しており、また対外関係において外務省と国防省、国家保安委員会(KGB)などとの間での権力関係がどのようなものであったのかについて、必ずしも明確に示されていない。したがって、はたして外務省内で立案される構想が、ソ連の政府内でどの程度大きな位置を占めており、どのように他の組織と摩擦や対立を見せていたのかが明らかではない。それらについても序章などで丁寧な説明を加えるこ138法学研究 98 巻 9 号(2025:9)とによって、外相や外務省の構想や交渉の重要性や意義についてもより深い理解が可能だっただろう。 第三に、明示的に主張されているわけではないが、本論を読むとゴルバチョフによる「欧州共通の家」構想の挫折は、もっぱらソ連国家が解体する過程で主体性をなくしたことが原因であるように読める。ソ連が主体性を維持できていれば、ソ連を含めた欧州協調はあり得たであろうか。論争的な点であるだけに積極的に主張されてもよかったように思われる。 第四に、論文の叙述に関する形式的な点についてであるが、「しかし」という接続詞を頻繁にくり返し用いていることに見られるように、論述の論理構成が不要に複雑となってしまっており、論文の主張の焦点がつかみにくくなる文章が多く見られる。推敲を重ねて、議論の論理構成を整理することによって、より明瞭で読みやすい叙述に改善することができたのではないか。 ただしこのような課題は、本論文全体の意義を考える場合には、その本質を損なうものとはいえず、今後検討をするべき課題として位置づけるべきであろう。冷戦終結期のソ連外交を外相や外務省を中心に論じた本論文は、冷戦後のヨーロッパ国際秩序、さらには現在に至るヨーロッパ国際関係の中でのロシアの位置づけなどを理解する上で、不可欠で重要な基礎となることを確信する。以上のような理由からも、審査委員一同、本論文が博士学位(法学、慶應義塾大学)を授与するに値する十分な水準であると判断する。二〇二五年二月二七日主査 慶應義塾大学法学部教授 細谷 雄一法学研究科委員・博士(法学) 副査 慶應義塾大学法学部教授 大串 敦法学研究科委員・Ph.D. 副査 東京大学法学政治学研究科教授 板橋 拓己博士(法学)
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〔下級審民訴事例研究84〕再生手続開始後の信用組合組合員の脱退に基づく出資金返戻請求権を受働債権とする相殺が民事再生法九二条一項・九三条一項一号により許容されないとした事例(大阪高裁令和5年12月19日判決)
判 例 研 究113〔事 実〕 中小企業等協同組合法(以下、中協法という)に基づき設立された信用組合Y(被告・控訴人)の組合員であったX社(原告・被控訴人)は、令和二年一月一四日に再生手続開始決定を受けた(以下、本件再生手続という。債権届出期間満了日は同年二月一八日)。同年二月五日頃、Xに対して貸付金債権(以下、本件再生債権という)を有するYは、Xに対し、事業年度の終了に係る停止条件不成就の利益を放棄して、本件再生債権を自働債権、XのYに対する出資金返還請求権(以下「本件出資金返戻請求権」という)を受働債権として相殺の意思表示をした(以下、「本件相殺」という)。 なお、本件出資金返戻請求権とは、組合員が脱退した場合に当該事業年度終了日にYの組合財産が存在することを条件として、その後の総代会決議でこれが確定して初めて効力を生じ、その権利行使が可能となるものであることから、事業年度の終了日における組合財産の存在を条件とする停止条件付債務である。 Xは、令和二年九月、Yに対し、Xの定款(以下、「本件定款」という)に基づき、令和三年三月末日のYの事業年度終了日においてYを自由脱退する旨の意思表示をした。これに対して、Yは、令和二年九月頃、Xに対し、同年七月に本件定款の除名事由が生じているとして、Xを除名する決議を行う旨通知した。令和三年六月、Yの総代会において、同年三月末日の事業年度終了日における組合財産の存在が確定された。 本件は、Xが、Yに対し、XのYに対する本件出資金返戻〔下 級 審 民 訴 事 例 研 究 八四〕再生手続開始後の信用組合組合員の脱退に基づく出資金返戻請求権を受働債権とする相殺が民事再生法九二条一項・九三条一項一号により許容されないとした事例大阪高裁令和五年一二月一九日判決(金判一六九二号四四頁)法学研究 98 巻 9 号(2025:9)114請求権は、脱退の効力が発生する令和三年三月末の事業年度終了日における組合財産の存在が同年六月のYの総代会において確認されたことにより停止条件が成就した旨主張して、本件出資金返戻請求権に基づく支払を求めるものである。Yの主張は、本件出資金返戻請求権の停止条件は本件再生手続開始後の時点で成就しており、本件出資金返戻請求権が民事再生法九二条一項に基づく本件相殺により消滅したというものである。 本件の争点は、①本件再生手続開始当時、本件相殺の受働債権たる本件出資金返戻請求権が発生していたか、②仮に本件出資金返戻請求権が発生していたとしても、同法九二条一項により再生債権者がすることができるとされている相殺における受働債権に係る再生債務者に対して負担する「債務」(以下「民事再生法九二条一項にいう『債務』」という)に条件未成就の停止条件付債務(以下「未成就停止条件付債務」という)が含まれるか、③(未成就停止条件付債務が同法九二条一項にいう「債務」に含まれるとして)債務者が停止条件不成就の利益を放棄することにより、債権届出期間内の相殺適状を要件とする同法九二条一項を満たし得るか、の三点に整理された。 原審は争点②③を否定して、争点①を検討するまでもなく相殺は許容されないとして、Xの請求を認容した。Y控訴。〔判 旨〕 控訴棄却。 裁判所は、以下の理由により、①本件再生手続開始当時本件出資金返戻請求権が既に発生していたと解したとしても、②民事再生法九二条一項にいう「債務」に未成就停止条件付債務は含まれておらず、③債務者が停止条件不成就の利益を放棄することによっても同項の要件を満たすとはいえないことからすると、争点①を判断するまでもなく本件相殺は許容されないと判断した。なお、便宜上、判旨のうち原審判旨と大きく相違する部分に傍線【1】~【6】を付している。 (1)争点②について ア「……民事再生法九二条は、相殺の担保的機能に対する再生債権者の期待を保護することが、通常、再生債権についての再生債権者間の公平、平等な扱いを基本原則とする再生手続の趣旨に反するものではないことから、原則として、再生手続開始時において再生債務者に対して債務を負担する再生債権者による相殺を認め、再生債権者が再生計画の定めるところによらずに一般の再生債権者に優先して債権の回収を図り得ることとしたものである(最高裁……平成二八年七月八日第二小法廷判決・民集七〇巻六号一六一一頁参照)。もっとも、再生手続開始後の相殺をなし得る債務の範囲を全く制限しないものとすると、再生債務者が現実の債務の履行を受けるという本来受ける利益を取得する機会を失わせる結果、判 例 研 究115過大に財産の減少を招き、その再建を妨げるおそれがある。また、いつまでも相殺ができることとするならば、再生債務者の有する積極財産及び消極財産の範囲を明確にすることができず、再生計画案の作成等の手続の進行に支障をきたす。このような事態は、再生計画を定めること等により再生債務者と債権者との間の『民事上の権利関係を適切に調整し、もって当該債務者の事業又は経済生活の再生を図る』ことを目的とする(同法一条)法の趣旨に反することは明らかである。このようなことから、同法九二条一項は、債務者に対して『債務を負担する』再生債権者による相殺を原則として認める一方で、相殺によって消滅させることのできる『債務』の範囲や相殺をなし得る期間を上記のとおり制限し、もって再生債権者の相殺の担保的機能への期待と再生債務者の事業の再建との調整を図ったものと解される。 このような民事再生法九二条一項の趣旨に鑑みれば、同項により再生債権者がすることが許される相殺における受働債権に係る債務は、再生手続開始当時少なくとも現実化しているものである必要があり、将来の債務など当該時点で発生が未確定な債務は、特段の定めがない限り、含まれないと解することが相当である。 この点、停止条件付債務が現実化するのは条件が成就する時であるから、未成就停止条件付債務を負担していても未だ民事再生法九二条一項にいう『債務』を負担しているとはいえない。そして、同項は、未成就停止条件付債務と同様、【1】即時の履行を請求することができない再生手続開始時点で期限未到来の期限付債務については、その後段において同項の『債務』に含む旨を明記しているにもかかわらず、条件付債務についてはそのような規定がない。【2】法律行為の付款である条件と期限とでは、法律行為の効力発生を成否未定の事実にかからせるか、到来することが確実な事実にかからせるかの違い(すなわち、将来において効力が発生する蓋然性の程度の相違)があることからすると、上記のような『債務』についての規律が不合理なものということもできない。本件出資金返戻請求権に付された停止条件が、成就の蓋然性が高いものであったとしても、期限と同視されるわけではない。 以上からすれば、民事再生法九二条一項にいう『債務』には未成就停止条件付債務を含まないと解することが相当といえる。……」 イ「……確かに、民事再生法においても、同じ倒産法制を構成する破産法との間で、債権者間の公平や相殺の担保的機能の保護という理念を共通して有しており、類似の規定を置いている……。しかし、民事再生法は、平成一二年、当時法的倒産処理手続として存在していた、……和議に代わる再建型の倒産法制として新たに制定されたもので、既に和議法とは別の清算型の倒産法制として存在していた旧破産法の趣旨法学研究 98 巻 9 号(2025:9)116が当然に妥当するものではない。そして、旧破産法九九条と同旨の規定である破産法六七条二項は、破産手続開始時に債務を負担している債権者に対し、停止条件不成就の利益を放棄し得ることを前提に、期間の制限もなく相殺を認める趣旨の規定であり、これは、破産者の事業の継続がもはや予定されておらず、破産者の『財産等の適正かつ公平な清算を図る』(破産法一条)【3】という破産手続の目的を踏まえた規律ということができる。このような趣旨は、上記のとおり再生債務者の事業の存続及び再建のため相殺の範囲を限定している民事再生法九二条の趣旨には妥当しないことは明らかである。そうすると、破産法六七条二項において、債権者が受働債権とし得る債権に係る債務に条件付債務が含まれているからといって、その趣旨を民事再生法九二条一項に及ぼす合理的理由はない。 さらに、Yは、債務者の支払不能等を知る前から停止条件付債務を負担しているにもかかわらず、債務者が再生手続を採るか破産手続を採るかによって相殺の可否が変わったり停止条件付債務の停止条件の成就時期で相殺の可否が決まるのは不合理である、合理的な相殺への期待は保護されるべきであるなどとも主張するが、取引相手が債務超過となり法的整理手続を選択したという倒産手続の場面においては、債権者平等原則の下、各債権者が、たとえ平時であればすることのできた正当な権利行使や合理的期待であっても、当該選択された倒産処理法制の下では一定の範囲で制限されることはやむを得ないことであるし、かつその制限の範囲が当該倒産処理手続が破産手続であるか再生手続であるかによって異なることも各制度の趣旨目的が異なる以上当然の帰結であるから、Yの主張する上記事情をもって法律の解釈を変えるべき理由にならない。本件において、YにはXから出資を受けた時点から既に将来の払戻債務に係る相殺に対する期待が生じておりそれが合理的なものであったとしても、既に述べたとおり、民事再生法は再生債務者の事業の再生という目的をも考慮して相殺をすることができる場合を制限しているものであるから、合理的期待のある相殺であっても一定の範囲では保護され得ないことは既に想定されており(同法九三条一項一号が、再生手続開始後の債務負担の場合については、再生債権者の主観的要件に関わらず一律に相殺を禁止しているのもこのような趣旨と解することができる。)、Yの上記主張によっては同法九二条一項で許容される相殺の範囲は左右されない。 【4】また、民事再生法の立法段階において同法九二条一項の『債務』につき、条件付債務を含む破産法六七条二項と異なる規律を明文で定めていることからすると、民事再生法九二条一項の『債務』から条件付債務を除外することが立法者の意思であったと解するのが自然かつ合理的な法解釈というべきである。」 ウ「以上のとおり、本件出資金返戻請求権に係る債務は、判 例 研 究117仮に発生していたとしても、未成就停止条件付債務である以上民事再生法九二条一項の相殺における『債務』に含まれない。」 (2)争点③について ア「……以上のとおり、同項の『債務』に未成就停止条件付債務を含まないから、仮にその後に停止条件が成就したり、不成就の利益を放棄して届出期間内に相殺適状となったとしても、前記のとおり停止条件付債務が現実化するのが条件成就の時であることからすると、本件相殺が同項によって許されることにはならない。」 イ「Yは、停止条件不成就の利益を放棄して届出期間内に相殺適状とさえなれば民事再生法九二条一項の相殺は許される旨を主張する。 【5】しかしながら、同条項が時期的な制限を含む一定の要件のもとで再生計画の定めによらない相殺を許容していることからすると、上記のようなYの解釈は、再生手続開始の時点で現実化している債務(期限付債務は、効力発生を到来確実な事実にかからせるという付款としての性質から民事再生法九二条一項の解釈上は現実化していると解される。)に限定して相殺を許容する同条項の趣旨に反するものであって、採用することができない。 【6】特に、本件相殺は、本件再生手続開始から約一か月が経過した、Yの再生債権届出直後の令和二年二月五日頃に行われているところ……、実際に本件再生手続開始に伴うXの除名事由が発生したのはその後の同年七月……、Xから自由脱退の意思表示及び除名決議が行われたのは同年九月以降……のことなのであって、本件の個別具体的な事情の下で、再生手続開始時に本件出資金返戻請求権が現実化していないことは明らかであり、本件相殺の効力を認めることが、同条項の上記趣旨に反することは明らかである。……」 ウ「以上の検討によれば、仮に……Yが、本件再生手続の開始後に停止条件不成就の利益を放棄することができると解するとしても、本件相殺が民事再生法九二条一項によって効力を生じるとはいえない。」〔評 釈〕 本判決の結論に賛成する。一 本判決の意義 破産法六七条一項は、破産債権者が破産手続開始時に破産者に対して債務を負担するときは、破産手続によらずに相殺することができる旨を定める。同条二項後段は、「……債務が期限付若しくは条件付であるとき……も、同様とする」と定め、破産債権者が破産手続開始時に破産者に対して停止条件付債務を負担している場合に相殺が許さ法学研究 98 巻 9 号(2025:9)118れることを明文で明らかにしている。そのため、破産債権者が破産手続開始時に破産者に対して停止条件付債務を負担している場合、破産法七一条一項一号ではなく同法六七条二項後段が適用され、停止条件不成就の利益の放棄または停止条件成就により、停止条件付債務と破産債権との相殺は原則として許されると解されている。 これに対して、民事再生法九二条一項前段は、再生債権者が再生手続開始当時再生債務者に対して債務を負担する場合において、債権債務双方が債権届出期間満了前に相殺適状になったときは、再生債権者は、当該期間内に限り、再生計画の定めによらずに相殺することができる旨を定める。同項後段は、破産法六七条二項後段と異なり、「債務が期限付であるときも、同様とする」と定め、条件付債務についての定めがない。なお、民事再生法九三条一項一号は、破産法七一条一項一号と同様に、再生債権者が再生手続開始後に債務を負担した場合の相殺禁止を定める。 そこで、再生債権者が再生手続開始時に停止条件付債務を負担している場合、債権届出期間満了前に、停止条件不成就の利益の放棄または停止条件成就により、停止条件付債務と再生債権との相殺が許されるか否かについては、法文上明らかでなく、問題となる。 この問題について、本判決は、信用組合が組合員に対して負担する出資金返戻債務が、組合員の再生手続開始当時、停止条件付債務であって、しかも組合員が脱退も除名もしていなかったという事案において、再生手続開始時に未成就の停止条件付債務は、民事再生法九二条一項前段にいう「債務」に含まれないため、再生債権者は、債権届出期間満了前に停止条件不成就の利益を放棄して、停止条件付債務と再生債権との相殺をすることは許されないと判断した下級審裁判例としての意義をもつ( ( (。二 先例1 概観 停止条件付債務の倒産手続開始後の条件成就と相殺に関連する判例としては、旧会社整理(会社法成立時に廃止)につき、最判昭和四七年七月一三日民集二六巻六号一一五一頁(以下、昭和四七年最判という)があり、破産手続につき、最判平成一七年一月一七日民集五九巻一号一頁(以下、平成一七年最判という)がある。いずれも手続開始後に停止条件が成就した事案である。 民事再生に関する判例としては、支払停止後(危機時期)の停止条件付債務の条件成就と相殺に関する最判平成判 例 研 究119二六年六月五日民集六八巻五号四六二頁(以下、平成二六年最判という)および三者間相殺に関する最判平成二八年七月八日民集七〇巻六号一六一一頁(以下、平成二八年最判という)がある。2 各判例の内容 (1)昭和四七年最判 旧会社整理は、旧破産法(平成一六年法律第七五号による廃止前のもの)一〇四条一号(現行七一条一項一号)を準用する一方、旧破産法九九条後段(現行六七条二項後段)を準用していなかった。旧会社整理について、昭和四七年最判は、譲渡担保契約の担保権者が、債務者の整理開始後、私的実行(処分清算)により発生した剰余金返還債務を受働債権、被担保債権でない債権を自働債権とする相殺の事案において、債権者が整理開始時に停止条件付債務を負担し、整理開始後に停止条件が成就した場合、整理開始後の債務負担にあたり、相殺が禁止されるとした。 その理由として、昭和四七年最判は、旧破産法一〇四条一号(現行破産法七一条一項一号)の法意から、整理開始後の債務負担とは、その負担の原因や原因発生時期に関係なく、債務を現実に負担した時期が整理開始後である場合をいい、契約締結が整理開始前でも契約締結によって債務を負担したとはいえず、停止条件成就によってはじめて債務を負担したというべきであること、旧破産法一〇四条二号但書(現行七一条二項各号)において、債務負担の原因や原因発生時期による区別を設け、相殺禁止の除外事由を明示するのに対し、同条一号にはこの規定がないことを挙げる。 昭和四七年最判の射程については、旧破産法九九条後段(現行六七条二項後段)の規定のある破産手続には及ばないとする見解( ( (と昭和四七年最判の射程は破産手続にも及ぶとする見解(有力説)( ( (がある。後者は、金額未確定であること、発生が不確実であること、相殺の合理的期待がないこと、譲渡担保権者が担保権の範囲外で優先弁済を受けることは債権者間の公平を欠くことなど事案の特性を根拠とする。 (2)平成一七年最判 旧破産法一〇四条一号(現行七一条一項一号)と旧破産法九九条後段(現行六七条二項後段)の適用関係が問題となった平成一七年最判は、破産債権者たる損害保険会社が、保険契約者である破産者の破産前に保険契約を締結し、破法学研究 98 巻 9 号(2025:9)120産後、破産管財人の解約によって発生した解約返戻金債務との相殺について、おおよそ以下の通り判示した。 旧破産法九九条後段の趣旨は、相殺の担保的機能に対する期待の保護にあり、相殺権行使に限定もなく、破産手続には相殺権行使の時期について制限がない。したがって、破産債権者の負担する債務が停止条件付である場合、特段の事情のない限り、停止条件不成就の利益を放棄したときだけでなく、破産後に停止条件が成就したときも、同条後段により、その債務を受働債権として相殺することができる。昭和四七年最判は事案を異にする。 なお、前記「特段の事情」については、金額未確定の場合、合理的な相殺期待がない場合を含める見解と相殺権の濫用の場合に限定する見解に分かれるという分析がある( ( (。平成一七年最判の射程については、破産法六二条二項後段に相当する規定がなく、相殺権行使の時期について制限がある民事再生・会社更生には及ばないとする見解( ( (と、再生手続にも射程は及ぶと考える見解に分かれる( ( (。後者は、破産法六二条二項後段が確認的規定であること、相殺の合理的期待は両手続で同じであることを根拠とする。 (3)平成二六年最判 平成二六年最判は、再生債権者が、投資信託受益権購入者である再生債務者の支払停止後、投資信託の解約実行請求権を代位行使したことにより負担した解約金返還債務を受働債権、再生債権を自働債権とする相殺をした事案について、民事再生法九三条一項三号の適用を前提としつつ、再生債権者が相殺の担保的機能に対する合理的期待を有していたとはいえず、同条二項二号の「前に生じた原因」にあたらない旨を判示した。 再生手続において停止条件成就時が相殺禁止規定における債務負担時であることを前提とする平成二六年最判は、昭和四七年最判・平成一七年最判と軌を一にするものである( ( (。なお、破産手続における支払停止前の請負契約に基づく支払停止後の違約金債権取得(自働債権取得)の事案について、最判令和二年九月八日民集七四巻六号一六四三頁(以下、令和二年最判という)においても平成二六年最判が参照されている( ( (。 (4)平成二八年最判 平成二八年最判は、民事再生法九二条一項の「再生債務者に対して債務を負担する」という要件が相互性の要件を判 例 研 究121採用したものであり、三者間相殺が民事再生法九二条一項の文言に反し、再生債権者間の公平、平等な扱いという基本原則を没却するものというべきであり、相当ではないとして、相殺を否定した判例である。 本件判旨(1)アは、民事再生法九二条の趣旨について、平成二八年最判を参照する。平成二八年最判は、本件判旨(1)アが参照する部分よりも手前の部分において、「相殺は、互いに同種の債権を有する当事者間において、相対立する債権債務を簡易な方法によって決済し、もって両者の債権関係を円滑かつ公平に処理することを目的とする制度……」と判示して、最大判昭和四五年六月二四日民集二四巻六号五八七頁と最判平成二四年五月二八日民集六六巻七号三一二三頁を参照する。実は平成二八年最判は、前記二判例が「相殺は……目的とする合理的な制度」としていたところを、「合理的な」という文言を削除した判例である。平成二八年最判が相互性要件を重視し、相殺の合理的期待という基準(平成二六年最判参照)を採用しなかったことからすると、「相殺の合理的期待」を想起させることを回避するために「合理的な」を削除したと思われる( ( (。三 学説1 概観 本件争点②民事再生法九二条一項にいう「債務」に未成就停止条件付債務が含まれるか、および争点③同法九二条一項にいう「債務」に含まれるとして債務者が停止条件不成就の利益を放棄することにより債権届出期間内の相殺適状を要件とする同法九二条一項を満たし得るかという問題については、学説上の議論がある。 ここでは、破産法六七条二項後段の規定をどう理解するかという観点から、確認規定説と手続目的説の二つに分けることにする( (1 (。 確認規定説(近時の多数説)( (1 (は、停止条件付債務に関する破産法六七条二項後段について、民法上、停止条件不成就の利益を放棄して相殺することが認められることを確認的に規定したものであることを根拠とする見解であり、争点②③を原則として積極に解する見解である(相殺の合理的期待がない場合がその例外となる)。 これに対して、手続目的説(有力説)((1 (は、破産法六七条二項後段の規定が、民法上は認められない停止条件付債務との相殺を破産手続の目的から特別に認めることとした規定であることを根拠とする見解であり、目的の異なる再生法学研究 98 巻 9 号(2025:9)122手続においては、争点②③を消極に解する見解である。なお、手続目的説には、折衷的見解もある( (1 (。折衷的見解によると、破産法六七条二項後段の規定の意義を、①停止条件付債務は、手続開始後の停止条件不成就の利益の放棄により、相殺することができること、②停止条件付債務は、手続開始後に停止条件が成就した場合、相殺することができることの二つに分けつつ、それに相当する規定が民事再生法については、①放棄による相殺を禁止し、②債権届出期間満了前の停止条件成就による相殺を許容する見解である。 以下では、確認規定説(本件Yの立場)と手続目的説(本件Xおよび本判決の立場)の骨子を紹介する。詳細な論旨は、注に掲げた文献を参照いただきたい。2 確認規定説 確認規定説( (1 (は、破産法六七条二項後段の規定について、破産法七一条二項二号の「前に生じた原因」における相殺の合理的期待の保護を定めた規定と同趣旨と解する。そして、破産法と同様に民事再生法九三条二項二号の「前に生じた原因」によって相殺の合理的期待が再生手続開始前の危機時期において保護されており、危機時期の相殺禁止は、手続開始後の相殺禁止を遡及させたものであることから、同法九二条一項の「債務」には停止条件付債務が含まれると解する( (1 (。平成一七年最判のいう特段の事情は相殺の合理的期待のない場合を意味し、平成一七年最判の射程は、再生手続に及ぶ。昭和四七年最判は、相殺の合理的期待のない事案であったことから、その射程は、破産手続にも及ぶ(破産手続においても相殺禁止となった事案である)という見解である。 確認規定説の特徴は、①倒産手続間で相殺の合理的期待の保護は同一にすべきであること、および②危機時期と手続開始後とで相殺の合理的期待の保護は同一にすべきであることの二つに集約することができる。①の理論的根拠は、破産と再生の違いは弁済原資が現有資産か将来収益かという換価方法の違いであり、換価方法の違いによって分配問題である債権者間の優劣に違いが生じるべき合理的理由はないことに求められる。②の理論的根拠は、手続開始後の担保取得が禁止されるのと同様に、手続開始時に民法上の相殺権が成立していなければならず、この手続開始時を基準とする相殺禁止を、偏頗行為規制により、危機時期まで遡及させたものが危機時期の相殺禁止であることに求められる( (1 (。判 例 研 究1233 手続目的説 手続目的説( (1 (は、相殺の担保的機能の保護範囲は、破産手続と再生手続の目的の違いを反映した差異があってよく、破産手続開始時の停止条件付債務との相殺を許容する明文規定を定めるのは破産手続の清算目的の反映であるとする。相殺の合理的期待の保護は「前に生じた原因」に関するものであることから、手続開始時の停止条件付債務との相殺の可否の基準とはならないとする。 確認規定説とあえて図式的に対比させるならば、手続目的説の特徴は、①倒産手続間で相殺の担保的機能の保護範囲は差異があってよいこと、および②危機時期と手続開始後とで相殺の担保的機能の保護範囲は差異があってよいことの二つに集約することができる。①の根拠としては、破産手続の目的(清算)が再生手続の目的(再建)とは異なることに求められる。②の根拠としては、明文規定や判例との整合性を挙げるにとどまるように見えるが、実質的根拠とは言えまい。あえて実質的根拠として挙げるならば、昭和四七年最判のように、債権者平等を図るため、手続開始時を基準時として設定し、開始後の債務負担による相殺を画一的に禁止することにした点( (1 (に求められよう。四 停止条件不成就の利益の放棄の効果1 問題の所在 本件事案は、昭和四七年最判や平成一七年最判のような、手続開始後に停止条件が成就した事案ではなく、債権者が停止条件不成就の利益を放棄した事案である。それゆえ、再生債権者が手続開始後に停止条件不成就の利益を放棄した場合、どのような効果が生じるかが問題となる。つまり、停止条件不成就の利益の放棄の効果として、停止条件が成就した場合と同じ効果が発生するのか、それとも停止条件は成就せず、停止条件付債務が無条件の債務として発生(あるいは現実化)するのかという問題であり、見解は分かれている。倒産手続相互間危機時期と手続開始後確認規定説同一(分配問題) 同一(開始時の禁止を危機時期に遡及)手続目的説手続目的ごとの相違許容相違許容(開始後は画一的な平等?)相殺の担保的機能の保護範囲法学研究 98 巻 9 号(2025:9)1242 停止条件の成就 伊藤説(手続目的説)は、本件事案について、出資金返戻債務が信用組合からの脱退とその時点における正味財産の存在を前提とする停止条件付債務であるとの前提に立ったとき、出資金返戻債務は、組合員の地位と密接不可分に結びついており、停止条件の主たる内容である脱退は組合員の地位喪失を意味する組織法上の行為である、という。したがって、停止条件成就は出資金返戻請求権という組合員の利益を発生させるが、それは組合員たる地位の喪失という不利益を基礎としたものであり、停止条件不成就の利益の放棄という債務者の一方的意思表示によって行うことを認めるべき理由はない、とする( (1 (。 山本和彦説(確認規定説)は、保険契約についてであるが、停止条件不成就の利益の放棄が、結局、相手方の保険金支払請求権を奪うことになり、その結果として相手方に一定の不利益が生じることは否定できない、とする。その上で、それが相殺権の濫用をもたらすかが問題であり、利益衡量の結果、そのような放棄は可能であるとして、相殺を肯定する結論を導いている( (2 (。 伊藤説、山本和彦説のいずれも、停止条件不成就の利益の放棄の効果が停止条件成就であると考える見解といえる。3 無条件の債務の発生 水元説(確認規定説)は、本件事案について、停止条件不成就の利益の放棄が契約から生じる当該請求権に関する利益の放棄にすぎず、その放棄によって出資金返戻請求権が現実化しても、組合員の地位が奪われることにはならないとする( (2 (。水元説は、この理解を前提として、脱退前にする停止条件不成就の利益の放棄は、出資なき組合員を認める結果になるから、強行法規とみるべき中協法一〇条一項・同六項・二〇条一項等の趣旨に反するとして、相殺否定の結論を導く。水元説は、停止条件不成就の利益の放棄の効果について、停止条件成就の効果は発生しないと解する見解である。 停止条件不成就の利益の放棄について、詳細に検討する今泉説( (2 (は、まず、ゴルフ会員権の預託金返還請求権は、退会を停止条件とする停止条件付債権であるが、停止条件不成就の利益の放棄は可能であり、この場合、相殺の結果、預託金のない会員(プレー権はある)ができるが、法律上の問題はないとする。したがって、停止条件不成就の利益の放棄の効果は、無条件の債務の発生ととらえる立場である。 その今泉説は、信用金庫の会員の倒産について、持分払判 例 研 究125戻請求権は、条件①法定脱退事由の発生と条件②事業年度の終期の信用金庫の正味財産の存在という二つを停止条件とする停止条件付債務であることを前提として、仮に確認規定説に立つならば、以下のようになると論じる。 破産手続( (2 (においては、条件①は破産開始決定が法定脱退事由(信用金庫法一七条一項三号)であり、条件成就となり、条件②の停止条件付債務となる。条件②は金額未確定でも出資金という上限額があることから、停止条件不成就の利益の放棄は可能であり、上限額以下となる利益も放棄して、相殺することができる。 特別清算( (2 (においては、解散決議による通常清算が特別清算に先行する場合、解散決議が法定脱退事由(信用金庫法一七条一項二号)となり、条件①は特別清算開始前に成就しており、特別清算の開始時点で条件②事業年度の終期が到来していなければ、破産と同じく条件②を停止条件とする停止条件付債務となり、停止条件不成就の利益を放棄して、相殺することができる。 民事再生((2 (においては、手続開始時に条件①②とも未成就の停止条件付債務となり、条件②の停止条件不成就の利益の放棄はできるが、条件①については、法定脱退事由の不発生という利益を放棄して持分払戻請求権を発生させて相殺することが信用金庫法上可能かどうかが問題となる。条件①法定脱退事由の不発生という利益の放棄(以下、条件①放棄という)は、法定脱退事由がないにもかかわらず持分払戻請求権を発生させて相殺することにより債務を消滅させることになる。そうすると、会員は、会員資格があるにもかかわらず持分がないことになり、信用金庫法一一条が認めていない出資持分を有しない会員を認めることとなり、出資を持ち寄って組織される人的協同組織である信用金庫では許されないため、信用金庫法上、条件①放棄による相殺は許されない。 以上より、今泉説は、停止条件不成就の利益の放棄の効果は無条件の債務の発生とみていることがわかる。なお、今泉説は、民事再生についての上記検討に続けて、条件①放棄による相殺により会員の持分は全部喪失として法定脱退事由(信用金庫法一七条一項五号)が発生し、条件①放棄は可能であるという考え方がありうるとしつつも、脱退事由がないにもかかわらず会員の意思に反して会員の地位を奪うことになり、信用金庫法上許されないとしている((2 (。4 本判決の立場 本判決は、手続目的説を採用して相殺を否定するため、法学研究 98 巻 9 号(2025:9)126停止条件不成就の利益の放棄は当然許されないこととなり、この点についての言及は少ない。本件判旨(2)イにおいて、再生手続開始時点で現実化している債務に限定して相殺を許容する民事再生法九二条一項の趣旨に反するというにとどまっている。もっとも、本稿での引用は省略しているが、本件判旨(2)イの引用部分の末尾に続く部分においては、本件出資金返戻請求権が停止条件の放棄により無条件の債務となると解する場合も、停止条件という合意による付款を一方的に放棄することにより無条件の債務とすることができると解することには疑問があると判示している。そうすると、本判決は、停止条件不成就の利益の放棄の効果を停止条件成就ととらえ、無条件の債務の発生は、停止条件0 0 0 0の放棄の効果であると整理していることになろう。結局、停止条件成就と無条件の債務の発生のどちらもありうるものであって、停止条件付債務を負担する者がいずれの効果の発生を求めて放棄の意思表示をしているかということを、放棄の趣旨から読み取り、その放棄の可否を検討すべきであることになる。五 本件判旨と原審判旨の対比 本判決は手続目的説を採用するものである。原審判旨と比較して、本判決の立場をより明確にしておくことにする。 まず、本件判旨傍線【2】・【5】の通り、本判決は、期限と条件との相違(将来における効力発生の蓋然性の相違)を前提として、民事再生法九二条一項の解釈として、期限付債務は現実化しており、停止条件付債務は現実化していないとする。それゆえ、本判決は、本件判旨傍線【1】の通り「即時の履行を請求することができない再生手続開始時点で期限未到来の期限付債務」として、期限付債務が手続開始時に現実化していることを前提とする。 これに対して、原審判旨は、「未成就停止条件付債務と同様に未だ現実化しているとはいえない期限未到来の期限付債務」としていた。つまり、両者とも現実化していない債務と解する。それゆえ、原審判旨は、破産法六七条二項の趣旨として、「破産手続において、その目的達成のため、相殺の範囲をむしろ実体法以上に特に拡大したものということができる」として、実体法を拡張した規定であるとしていた。原審は、破産法六七条二項後段の期限付債務も停止条件付債務もどちらも拡張規定と位置付ける見解に読める。 本件判旨傍線【3】の通り、本判決は、破産手続目的(破産法一条)を踏まえた規律という点を強調し、実体法判 例 研 究127の拡張という理解から距離を置き、少なくとも期限付債務については確認規定と位置付けているように読める。いずれにせよ、本判決は、破産法六七条二項を破産手続の清算目的を踏まえた規律であることを重視しつつも、実体法を拡張した規定であるか否かを明確にしていない点に特色がある。 本判決は、民事再生法九二条一項における期限付債務と停止条件付債務との区別を、「現実化」しているか否かという点に求める。実際、本判決は、本件判旨傍線【6】において、除名事由の発生、自由脱退の意思表示、または除名決議といった事実が再生手続開始後に発生したことに言及して、停止条件付債務が現実化していないことを確認している。 破産手続開始決定が停止条件付債務を破産手続開始時または破産手続開始後に現実化させる効果をもつ蓋然性は民事再生手続よりも高い( (2 (。そうであるならば、手続目的説を確認規定説的に理解することができよう。すなわち、特段の事情がない限り、停止条件付債務との相殺が肯定されることを確認する規律を破産法に設けることには合理性があるが、再生手続開始決定には停止条件付債務を現実化させる効果をもつ蓋然性が低い(つまり、停止条件不成就の利益の放棄が許されない場合が再生手続では多い)ため、そのような確認規定を民事再生法に置かないことが合理的であると考えることができる。 これを本件事案にあてはめると、本件出資金返戻請求権が、組合員による脱退の意思表示または資格喪失や除名決議等による法定脱退(中協法一八条、一九条一項一号、三号)(条件①)、およびその事業年度の終了日における組合財産の存在(同法二〇条)(条件②)を条件とする停止条件付債務であることを前提とすると、破産手続の場合は、破産手続開始決定により法人の解散が生じ、これが組合員の資格喪失事由に該当して法定脱退となる(条件①成就)。そして、条件②の停止条件不成就の利益を放棄するによって、上限額で相殺することができると解される。条件②は不確定期限と同視すべき停止条件であることから、破産手続開始時に現実化しているといえ、特段の事情がなく、停止条件不成就の利益の放棄による相殺は可能であると解される。 これに対して、再生手続開始決定は信用組合の法定脱退事由とならない。そのため、手続開始時において条件①は当然には成就せず、債務は現実化していない。しかも条件①の停止条件不成就の利益の放棄は、法定脱退事由を定め法学研究 98 巻 9 号(2025:9)128た趣旨に反して許されないと解される。停止条件不成就の利益の放棄により、組合員たる地位の喪失という不利益を組合員に生じさせる(伊藤説)、あるいは出資なき組合員を認めることになる(水元説)からである。 以上、本件事案に関する限り、手続目的説を採用する場合のみならず、確認規定説を採用したとしても、停止条件不成就の利益の放棄をすることができず、停止条件付債務を債権届出期間満了前に現実化することはできないため、相殺を否定すべきである。したがって、本判決の結論に賛成する。(1) 本件の評釈として、浅野雄太「判批」ジュリスト一六一〇号一〇六頁(二〇二五年)、上江洲純子「判批」私法判例リマークス七〇号一二八頁(二〇二五年)。本件原審の評釈として、水元宏典「原審判批」新・判例解説Watch 三四号二一五頁(二〇二四年)。本件と酷似する設例について、信用組合による相殺を肯定する論文として、中西正「民事再生における再生債権と停止条件付債務の相殺」立教法学一〇九号一八三頁(二〇二三年)があり、本件X側意見書を提出した伊藤眞教授による本判決後の論文として、伊藤眞「続・倒産法関係の諸問題を想う―近時の3題―」金融法務事情二二二九号一七頁(二〇二四年)がある。信用金庫の会員の倒産に関して、今泉純一「信用金庫の会員の法的倒産手続と会員の持分払戻請求権・持分譲受代金支払請求権を受働債権とする相殺の可否」甲南法務研究五号(二〇〇九年)四一頁が詳細である。本稿は前記先行研究に多くを負っている。(2) 鈴木弘・最判解民事篇昭和四七年度六三九頁・六四八頁。(3) 昭和四七年最判について、杉山悦子「平成一七年最判の判批」松下淳一=菱田雄郷編『倒産判例百選〔第六版〕』(有斐閣・二〇二一年)一三一頁参照。(4) 杉山・前掲注(3)一三一頁参照。特段の事情の否定例として、大阪高判平成二二年四月九日金法一九三四号九八頁。(5) 再生手続開始後の手形取立により負担した取立金返還債務につき、東京地判平成二三年八月八日金法一九三〇号一一七頁。なお、株主の具体的剰余金配当請求権につき大阪地判平成二三年一月二八日金法一九二三号一〇八頁も同じ結論をとる。(6) 杉山・前掲注(3)一三一頁。(7) 高木裕康「平成二六年最判の判批」松下=菱田編・前掲注(3)一三七頁。(8) 高田賢治「令和二年最判の判批」法学教室四八六号(二〇二一年)一四四頁。判 例 研 究129(9) 高田賢治「平成二八年最判の判批」私法判例リマークス五五号(二〇一七年)一二二頁参照。(10) 確認規定説・拡張規定説という分類が多い。山本和彦「経営者保険における会社の倒産と保険会社による相殺の効力」伊藤眞ほか編『倒産手続の課題と期待』(商事法務・二〇二〇年)四三九頁注二八および四四〇頁参照。しかし、伊藤・前掲注(1)二三頁以下は、破産法六二条二項後段の規定が実体法を拡張するものか確認するものかを重視しない見解であるため、本稿では、拡張規定説とはせずに、手続目的説とネーミングすることにする。なお、山本論文は、確認規定説を明快に論じるものである。(11) 確認規定説としては、山本・前掲注(10)四三八頁のほかに、山本和彦「賃貸借契約」全国倒産処理ネットワーク編『論点解説新破産法(上)』(金融財政事情研究会・二〇〇五年)一〇〇頁、中島弘雅=佐藤鉄男『現代倒産手続法』(有斐閣・二〇一三年)二四二頁〔中島〕、松下淳一『民事再生法入門〔第2版〕』(有斐閣・二〇一四年)一一三頁、山本和彦ほか『倒産法概説〔第二版補訂版〕』(弘文堂・二〇一五年)二六九頁〔沖野眞已〕、田頭章一『講義破産法・民事再生法』(有斐閣・二〇一六年)一九二頁、三上威彦『倒産法』(信山社・二〇一七年)八四二頁、加藤哲夫=山本研編『プロセス講義倒産法』(信山社・二〇二三年)二六二頁〔山本研〕、中西・前掲注(1)二一〇頁、水元・前掲注(1)二一七頁など。岡正晶「倒産手続開始時に停止条件未成就の債務を受働債権とする相殺―倒産実体法改正に向けての事例研究」(田原睦夫先生古稀・最高裁判事退官記念)『現代民事法の実務と理論(下)』(金融財政事情研究会・二〇一三年)一三九頁は立法論であるが、確認規定説に含めてよいであろう。( 12 ) 伊藤眞『破産法・民事再生法〔第五版〕』(有斐閣・二〇二二年)一〇〇一頁、一〇〇四頁注三一、園尾隆司=小林秀之編『条解民事再生法〔第三版〕』(弘文堂・二〇一三年)四七九頁〔山本克己〕、山本克己ほか編『新基本法コンメンタール民事再生法』(日本評論社・二〇一五年)二一八頁〔佐藤鉄男〕。なお、旧会社更生法に関して、兼子一ほか『条解会社更生法(中)』(弘文堂・一九七二年)八九二頁、現行会社更生法について、伊藤眞『会社更生法・特別清算法』(有斐閣・二〇二〇年)三六四頁注三七、三六九頁、特別清算について、同書九一五頁、松下淳一=山本和彦編『会社法コンメンタール13―清算(2)』(商事法務・二〇一四年)四六頁〔山本克己〕。(13) 加々美博久「倒産手続における停止条件付債権を受働債権とする相殺」伊藤眞編集代表『倒産法の実践』(有斐閣・二〇一六年)三五七頁。なお、伊藤眞『破産法・民事再生法』(有斐閣・二〇〇七年)六九六頁、全国倒産処理ネットワーク編『新注釈民事再生法(上)〔第二版〕』(金法学研究 98 巻 9 号(2025:9)130融財政事情研究会・二〇一〇年)五〇四頁〔中西正〕、今中利昭編『倒産法実務大系』(民事法研究会・二〇一八年)二〇八頁〔中井康之〕も、手続開始後の停止条件成就による相殺を肯定しつつ、手続開始後の停止条件不成就の利益の放棄による相殺の可否については沈黙する見解(結論的に折衷説に見える見解)であるが、それらの主な根拠は確認規定説である。ただし、その後、伊藤教授は、前掲注(12)の通り、手続目的説に改説しており、中西教授は、中西・前掲注(1)論文において、停止条件不成就の利益を放棄する場合も含む確認規定説であることを明示するに至っている。(14) 山本・前掲注(10)四三八頁以下参照。(15) 水元・前掲注(1)二一七頁参照。(16) 水元・前掲注(1)二一七頁参照。(17) 伊藤・前掲注(1)二〇頁。(18) 鈴木・前掲注(2)六四八頁参照。(19) 伊藤・前掲注(1)二五頁。(20) 山本・前掲注(10)四四三頁。(21) 水元・前掲注(1)二一八頁。(22) 今泉・前掲注(1)四一頁。(23) 今泉・前掲注(1)四六頁。(24) 今泉・前掲注(1)四九頁。(25) 今泉・前掲注(1)五〇頁。会社更生も民事再生と同様になる。同論文五四頁参照。(26) 今泉・前掲注(1)五四頁。(27) 破産手続開始決定の効果としては、法人の解散(一般社団法人及び一般財団法人に関する法律一四八条六号、会社法四七一条五号等)、委任の当然終了(民法六五三条二号)、組合の当然脱退(同法六七九条二号)等があり、手続開始後の双方未履行双務契約における解除の蓋然性が高いことについては、裁判所の許可が不要とされていること(破産法七八条二項九号参照)、相手方による確答催告の効果が解除擬制であること(同法五三条二項)が挙げられる。これらの点において、破産手続開始決定の効果を再生手続開始決定の効果と同視することはできない。高田 賢治
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〔商法661〕簡易株式交換手続に対する株主の反対通知のための個別株主通知の要否とその時期(東京高裁令和6年10月16日決定)
判 例 研 究99〔判示事項〕一、本件取締役会の招集通知には、目的事項として本件各株式交換契約の締結に関する件は記載されておらず、それとは別の議案のみが掲げられ、また、当該議案についてXが特別利害関係を有する取締役に該当するため審議・議決に加わることはできない旨の記載があることが認められるが、これをもって直ちにY社がXに対して本件取締役会に出席させない意図を有していたものとは認められない。二、会社法七九六条三項に基づく簡易株式交換手続に対する株主の反対通知をすることは、社債、株式等の振替に関する法律一五四条一項の規定する少数株主権等の行使に当たるところ、前記反対通知に際しての個別株主通知は、反対通知の期間である会社法七九七条三項の通知又は同条四項の公告の日から二週間以内にされなければならない。〔参照条文〕会社法七九六条三項社債、株式等の振替に関する法律一五四条一項簡易株式交換手続に対する株主の反対通知のための個別株主通知の要否とその時期〔商法 六六一〕判 例 研 究︵東京高決令和六年一〇月一六日令和六年(ラ)二二七一号、株式交換差止仮処分命令申立却下決定に対する抗告事件2024WLJPCA10166001 )法学研究 98 巻 9 号(2025:9)100〔事 実〕 Y社(債務者・相手方)は、東京証券取引所スタンダード市場上場会社である監査等委員会設置会社であり、その株式は社債、株式等の振替に関する法律(以下「振替法」という)上の振替株式である。他方、X(債権者・抗告人)はY社の株主であり、自己の名義で、令和六年三月三一日時点でY社の発行済株式総数の約三二・三七%を保有し、同年一〇月四日時点では約二八・六四%を保有していた。またXは、Y社の取締役でもあり、同年八月二三日開催の取締役会で多額の背任行為等を理由として解職されるまではY社の代表取締役を務めていた。 Y社は、同年九月二四日に開催された取締役会(以下「本件取締役会」という)における決議(以下「本件取締役会決議」という)を経た上で、同日、A社およびB社との間で、それぞれ株式交換契約(以下「本件各株式交換契約」という)を締結した。本件各株式交換契約では、Y社を完全親会社、A社およびB社をそれぞれ完全子会社とすること、効力発生日を同年一〇月一五日とすることなどが定められていた。その上で、Y社は、同年九月二六日午前零時から、会社法七九七条四項に基づき、本件各株式交換契約に基づく株式交換(以下「本件各株式交換」という)を行う旨の電子公告(以下「本件電子公告」という)を開始した。 なお、本件取締役会決議は、以下のような経緯で行われたものであった。すなわち、Y社の代表取締役Cは、同年九月二〇日、Xを含む取締役らに対し、本件取締役会の招集通知(以下「本件招集通知」という)をメールで送信し、Xはこれを受信した。上記メールにおいて、本件招集通知の目的事項としては、本件各株式交換契約の締結に関する件は記載されておらず、「決議事項 議案:前代表取締役の従業員に対するパワハラの労働基準監督署への通達について」(以下「別件議案」という)と記載され、併せて、「なお、上記議案については、X取締役は、特別利害関係を有する取締役に該当するため、審議・議決に加わることはできません。」とも記載されていた。本件取締役会においては、X以外の取締役全員(四名)が出席し、別件議案の審議の後、議長であるCから本件各株式交換契約を締結する件についての動議が出され、出席取締役の全員の賛成により、本件各株式交換契約を締結する旨の本件取締役会決議がされた。 これに対し、Xは、同年一〇月一日に会社法七九六条三項に基づく反対通知(以下「本件反対通知」という)をす判 例 研 究101るとともに、同月七日に所定の証券会社に対して振替法一五四条三項所定の個別株主通知の申出を行い、同月一一日に振替機関がY社に対して個別株主通知(以下「本件個別株主通知」という)をした。また、Xは、同月二日、本件各株式交換につき、法令・定款に違反し、Y社の株主が不利益を受けるおそれがある旨を主張して、差止めの仮処分を求める申立てをした。Xが法令違反として主張したのは、①本件取締役会決議が無効であること、②本件反対通知によってY社は簡易株式交換の手続をとることができなくなり、株主総会決議によって本件各株式交換契約の承認を受ける必要があったにもかかわらず、かかる承認を受けていないことなどであった。 他方、Y社は、同年一〇月二日、A社およびB社との間で、本件各株式交換契約を一部変更し、効力発生日を同月一七日に変更した旨を公表した。さらに、Y社は、同月四日、Xを含む取締役らに対し、同月九日開催の取締役会の招集通知を本件各株式交換契約が議題であることを記載してメールで送信するとともに、Xに対しては同招集通知を同月三日に書面でも発送し、同月四日、同書面がXに到達した。Y社は、同月九日、取締役会を開催し、本件各株式交換契約の締結および本件各株式交換契約の一部変更を追認する旨の決議(以下「本件追認決議」という)を行った。 原審( 東京地決令和六・一〇・一一〔2024WLJPCA10116001〕)はXによる差止めの仮処分を求める申立てを却下したので、Xが抗告した。Xは、抗告審において、本件事案においては、Xを保護する必要性が高いし、信義則上、反対通知の効力をY社に対抗することを認めることが相当である旨などを主張した。〔決定要旨〕抗告棄却。一 「本件招集通知には、目的事項として別件議案のみが掲げられ、また、別件議案についてはXが特別利害関係を有する取締役に該当するため審議・議決に加わることはできない旨の記載があることが認められる……が、これをもって直ちにY社がXに対して本件取締役会に出席させない意図を有していたものとは認められない(なお、特別利害関係を有する取締役の審議への参加の可否については見解が分かれており、招集通知に審議に加わることができない旨の記載をしたことをもって直ちに招集通知が違法になるものではない。)。」「また、Xが令和六年九月二日にY社のオフィスに立ち入ることができなかったことが認められる法学研究 98 巻 9 号(2025:9)102……ものの、Xは同年八月二三日に背任行為等を理由に代表取締役を解職されて非業務執行取締役となったこと……からすると、Y社がXに対して立入りを控えるように求めたとしても不当であるとまではいえないし、上記事実をもって、同年九月二四日の本件取締役会の際にXがこれに出席するためにY社のオフィスに立ち入ることが禁止されていたとは認められない。」「そして、Y社において、取締役会で招集通知に記載されていない事項を審議又は決議することが禁じられているとは認められないことからすると、本件取締役会において、目的事項として記載のなかった本件各株式交換契約の締結の件について審議及び決議をしたからといって、招集手続に違法があると断ずることはできない。」 「また、仮に本件取締役会決議について招集手続に瑕疵があったとしても、Y社は、本件各株式交換の効力発生日より前の令和六年一〇月九日に取締役会を開催し、本件各株式交換契約の締結を追認する旨の決議(本件追認決議)を行ったことが一応認められる……。したがって、本件追認決議により、本件各株式交換につき、有効な取締役会決議の欠缺といった瑕疵はもはや見出せないというべきである。」二 「会社法七九六条三項に基づく簡易株式交換手続に対する株主の反対通知は、同法七九七条三項の通知又は同条四項の公告の日から二週間以内に反対株式数が一定数に達した場合には、簡易株式交換手続を行うことができなくなり、効力発生の日の前日までに株主総会の決議によって承認が必要となる法的効果を発生させるものであるから、上記反対通知をすることは、振替法一五四条一項の規定する少数株主権等の行使に当たると解される。」「そして、個別株主通知は、振替法上、少数株主権等の行使の場面において株主名簿に代わるものとして位置付けられており(同法一五四条一項)、少数株主権等を行使する際に自己が株主であることを対抗するための要件であると解されるが、上記反対通知は裁判外において行使されるものであり、会社において、上記反対通知に際して個別株主通知を受けなければ、通常、反対通知を行った者の株式数を正確に認識することは困難であり、反対通知の期間経過時に株主総会の決議による承認が必要となるかどうかの判断をすることが困難となる。」「したがって、上記反対通知に際しての個別株主通知は、反対通知の期間である会社法七九七条三項の通知又は同条四項の公告の日から二週間以内にされなければならないと解するのが相当である。」判 例 研 究103 「本件についてみると、反対通知の期間は、本件電子公告の日……から二週間である令和六年一〇月九日までであったところ(民法一四〇条ただし書参照)、本件個別株主通知がされたのは、これを二日徒過した同月一一日であったことが認められる」。「そうすると、Xの行った本件反対通知は、法の要求する個別株主通知を欠くものであって、Y社に対抗することはできないというべきである。」三 「Xは、①反対通知の制度趣旨に鑑みれば、個別株主通知が反対通知の期間経過後にされた場合につき、一律に効力を否定することは、株主保護の観点から不当であり、反対通知の効果を認めることで株主を保護する必要性とそれによって会社に生じる不利益との利益衡量によって判断すべきである旨、②本件事案においては、Xを保護する必要性が高いし、信義則上、反対通知の効力をY社に対抗することを認めることが相当である旨を主張する。」 「しかしながら、上記①については、⒜会社法七九六条三項に基づく簡易株式交換手続に対する株主の反対通知は、同法七九七条三項の通知又は同条四項の公告の日から二週間以内に反対株式数が一定数に達した場合には、簡易株式交換手続を行うことができなくなり、効力発生の日の前日までに株主総会の決議によって承認が必要となる法的効果を発生させるものであること、⒝上記反対通知をすることは、振替法一五四条一項の規定する少数株主権等の行使に当たると解されるところ、上記の少数株主権等については個別株主通知がされた後でなければ行使することができない(振替法一五四条二項)とされていることに照らすと、個別株主通知が反対通知の期間経過後にされた場合における反対通知の効力を、すべからく一般的に株主と会社との利益衡量によって判断するべきであるとすることは、上記各規定の文言に沿うものではなく、多数の関係者の利害に影響を及ぼすこととなる組織再編手続における法的安定性を害するものである。また、上記②については、Xにおいて、株式等振替制度の実態上、個別株式通知に要する日数に一四日以上の期日を要する場合も十分想定されるとも指摘しているところであるが、本件においては、Xは、令和六年一〇月一日、本件反対通知を行い、同月二日には本件申立てに及んでおり……、同日頃に個別株主通知の申出を行うことが困難であった事情は認められない……にもかかわらず、Xは漫然と同月七日に個別株主通知の申出を行い、本件個別株主通知がされたのが同月一一日となった……との経緯が認められるものであり、一件記録に照らしても、Xの利益を殊更に保護すべきことや、信義則上、Xの反対法学研究 98 巻 9 号(2025:9)104通知の効力をY社に対抗することを認めるべきことを基礎付けるに足りる事情は認められない。」〔研 究〕一 はじめに 本件は、東京証券取引所スタンダード市場上場会社であり、振替法上の振替株式発行会社であるY社が行おうとした本件各株式交換につき、Y社の大株主であるXが、法令違反があることを理由に、差止めの仮処分を求める申立てをしたというものである。Xが主張する法令違反は多岐にわたるが、注目に値するのは、⑴取締役会決議の欠缺という法令違反の有無、および、⑵株主総会決議の欠缺という法令違反の有無であると考えられるため、本稿ではそれらのみを取り上げることにしたい。 ところで、上記⑵に係るXの主張の当否は、Xが行った本件反対通知が適法であったか否かに依存している。なぜなら、仮に適法であれば、Xが保有するY社株式数は法務省令(会社規則一九七条)で定める数を超えていたため、Y社は簡易株式交換の手続をとることができず、株主総会決議による承認を受ける必要があったことになるのに、それを受けていないからである。そして、本件反対通知の適法性の判断に際しては、株主は簡易株式交換手続に対する反対通知につき個別株主通知をすることを要するか、要するとした場合にいつまでにすることを要するかが問題になる。本決定と原決定は、おそらく公表裁判例として初めてこれらの問題について判示したものではないかと思われる(なお本決定の決定要旨一および二は原決定の引用によるものである)。 以下、上記⑴および⑵について、順次検討することにしよう。なお、筆者は、すでに別稿で本決定について取りあげたものの(久保田安彦「本件判批」ジュリスト一六〇九号〔二〇二五年〕二頁)、紙幅の制約上、検討することができなかった問題が少なからず残ったため、本稿で改めて本判決を取り上げることにした次第である。二 本件取締役会決議の有効性 会社が株式交換を行うためには、株式交換契約を締結しなければならないところ(会社法七六七条)、株式交換契約を締結することの決定は、簡易株式交換に当たる場合か否かを問わず、重要な業務執行の決定に当たるため、監査等委員会設置会社であるY社では取締役会決議によって決定することを要する(会社法三九九条二の一三第一項一号・判 例 研 究105四項)と解される。したがって、仮に取締役会決議によって決定していたとしても、当該決議が無効である場合は、株式交換の差止事由である法令違反に当たることになる。 本件において、Xは、Y社がXに対して本件取締役会に出席させない意図を有していたことを理由に、本件取締役会決議の無効を主張したところ、本決定はそのようなXの主張を排斥した。かかる本決定の判断は妥当なものであろうか。 この点について、以下のことからすると、Y社がXに対して本件取締役会に出席させない意図を有していた可能性は小さくないようにもみえる。すなわち、第一に、本件取締役会決議の後、その日のうちに本件各株式交換契約が締結されていることからすると、Y社において、本件各株式交換契約の締結のことは前々から決まっていたものと考えられる。それにもかかわらず、Y社は、本件各株式交換契約の締結の件について本件招集通知に記載していない。その上で、第二に、本件招集通知には、Xが特別利害関係人に当たる別件議案(「前代表取締役〔X〕の従業員に対するパワハラの労働基準監督署への通達について」)だけを記載するとともに、Xが特別利害関係を有する取締役に該当するため審議・議決に加わることはできない旨まで、わざわざ記載している。たしかに上記二つのことを別個にみると、本決定が述べるように、いずれも問題がないようにみえる。しかし、一体的に観察すると、Y社はXに対して本件取締役会に出席させない意図を有していたと認定することも可能であったように思われる。 そうすると、本決定がそうした認定をせず、本件各株式交換について有効な取締役会決議の欠缺という差止事由(法令違反)は認められないと結論付けたことの当否が問題になり得る。しかし、以下のことに鑑みると、結局のところ、実質的な問題はないのではないかと考えられる。 すなわち、前提問題として、仮にY社がXに対して本件取締役会に出席させない意図を有していたとした場合における本件取締役会決議の効力について、どのように考えるべきかが問題になる。この点について、会社が特定の取締役を取締役会に出席させない意図を有している場合は、当該取締役に招集通知を発しないという方法がとられることが多いと考えられる。そうであれば、そうした場合と、会社が特定の取締役に対して招集通知を発しているものの、当該取締役を本件取締役会に出席させない意図を有していた場合とで、取締役会決議の効力を別異に解することに合理性はなく、両者の場合をパラレルに解すべきであろう。法学研究 98 巻 9 号(2025:9)106そうだとすると、本件においても、原則として取締役会決議は無効であるが、Xが出席してもなお決議の結果に影響がないと認めるべき特段の事情があるときは、決議は有効であると解すべきことになる(最判昭和四四年一二月二日民集二三巻一二号二三九六頁参照)。 ただし、いずれにせよ、本件各株式交換契約の締結を追認する旨の決議(本件追認決議)の成立をめぐる事情等を踏まえると、本件取締役会決議については、仮にXが参加したとする場合でも、やはり決議は成立したであろうとみることができる。すなわち、本件追認決議に際しては、Xに対して、本件各株式交換契約の締結の件についても記載のある招集通知が送付されながらも、Xが出席しないまま決議が成立している。Xは招集通知が届いていなかった旨を主張しているが、本決定は招集通知がXに届いていたという認定をしているため、そうした事実認定を前提にすると、Xが出席しなかったのは、決議の成立を阻止できる見込みがなかったからであると考えるのが素直である。そうであれば、仮にXが参加したとする場合でも、本件追認決議は成立したであろうと想定される。そして、本件取締役会決議から本件追認決議までの間に、決議の帰趨に影響を及ぼすような事実の発生は認められない。そうであれば、上記のようにXが参加したとしても本件追認決議が成立していたと想定できる以上、それと同様に、本件取締役会決議についても、仮にXが参加したとしても成立していたと想定することができるであろう。この結果、仮にY社がXに対して本件取締役会に出席させない意図を有していたとする場合でも、本件取締役会決議は有効であると解すべきことになる。 また、仮に本件取締役会決議が無効であるとされた場合でも、本決定が判示するように、本件追認決議により、本件各株式交換については取締役会決議の欠缺という法令違反(差止事由)は認められないと解される。すなわち、取締役会の追認決議(再決議)についても、株主総会の追認決議(再決議)をめぐる議論(その詳細につき伊藤靖史「株主総会に関する近年の裁判例」商事法務二一七五号〔二〇一八年〕三五頁以下など参照)とパラレルな議論が可能であると考えられる。そのため、本件追認決議の法的性質は、本件取締役会決議の無効が確認されることを条件とする予備的・条件付決議であると解される。また、本件に関する限り、本件追認決議が本件取締役会決議の時点に遡って効力を生じることを認めたとしても、関係する会社法の各規定の趣旨に反することもないと考えられるため、判 例 研 究107かかる遡及的効力を認めてよいと解される。そうであれば、仮に本件取締役会決議が無効であるとされた場合でも、適法な手続によって本件追認決議がされたことにより、本件各株式交換については取締役会決議の欠缺という法令違反(差止事由)は認められないことになる。 以上のことからすると、Y社はXに対して本件取締役会に出席させない意図を有していたと認定することも可能であったように思われるものの、本決定がそのような認定をせず、本件各株式交換について有効な取締役会決議の欠缺という差止事由(法令違反)は認められないと結論付けたことについて、実質的な問題はないと考えられる。三 株主の反対通知に係る個別株主通知の要否とその時期 冒頭で述べたことの繰り返しになるが、Xは、本件各株式交換の法令違反として、株主総会決議の欠缺という法令違反を主張しているところ、かかる主張の当否は、Xが行った本件反対通知が適法であったか否かに依存している。なぜなら、仮に適法であれば、Xが保有するY社株式数は法務省令(会社規則一九七条)で定める数を超えていたため、Y社は簡易株式交換の手続をとることができず、株主総会決議による承認を受ける必要があったことになるのに、それを受けていないからである。そして、本件反対通知の適法性の判断に際しては、⑴株主は簡易株式交換手続に対する反対通知につき個別株主通知をすることを要するか(個別株主通知の要否)、⑵要するとした場合にいつまでにすることを要するか(個別株主通知の時期)が問題になる。⑴ 個別株主通知の要否 本決定はまず、個別株主通知の要否につき、簡易株式交換手続に対する反対通知をすることは振替法一五四条一項所定の少数株主権等の行使に当たり、個別株主通知を要すると解する。 この点について、振替法一五四条一項所定の少数株主権等とは、株主の権利のうち、会社法一二四条一項に規定する権利(基準日により定まる権利)を除いたものをいう(振替法一四七条四項)。反対通知は準法律行為(意思の通知)にすぎないものの、株主総会決議による承認が必要となるという法律効果を発生させ得るものであるため、株主の権利としての性格も認められる。また、反対株式数の算定時は反対通知の期間の終期となる日(会社法七九七条三項・四項所定の通知・公告の日から二週間経過した日)であると解されるところ(浜口厚子「少数株主権等の行使に法学研究 98 巻 9 号(2025:9)108関する振替法上の諸問題」商事法務一八九七号〔二〇一〇年〕四〇頁注一〇)、当然ながら基準日の対象になるものではなく、会社としては個別株主通知を受けなければ反対株式数を認識することが困難であるという事情もある。 これらのことに鑑みると、個別株主通知の要否につき、本決定の上記の解釈を支持すべきであろう(江頭憲治郎『株式会社法(第九版)』〔有斐閣・二〇二四年〕二〇三頁注五、浜口・前掲三五頁~三六頁)。⑵ 個別株主通知の時期 次いで本決定は、個別株主通知の時期について、個別株主通知は反対通知の期間内にすることを要する旨を判示した。 たしかにこうした解釈は、個別株主通知の法的性質に鑑みて、素直な解釈である。すなわち、個別株主通知は、少数株主権等の行使の場面において株主名簿に代わるものとして位置付けられているため(振替法一五四条一項参照)、株主名簿の記載(会社法一三〇条一項)と同じく、自己が株主であることを会社に対抗するための要件であるといわれる(最決平成二二年一二月七日民集六四巻八号二〇〇三頁、江頭・前掲二〇四頁注六)。そのことは、個別株主通知は、当該通知後四週間経過までの期間(振替法一五四条二項、振替法施行令四〇条)、個別株主通知を申し出た株主に、少数株主権等の行使に関して、権利行使資格を設定するという法的効果を生じさせることを意味すると理解される(山本爲三郎『株式譲渡と株主権行使』〔慶應義塾大学法学研究会・二〇一七年・初出二〇一二年〕九六頁~九七頁。なお、来住野究「株主名簿制度の法理(二)」法学研究九四巻八号〔二〇二一年〕三五頁~三六頁も参照)。そして、個別株主通知の法的性質がそのようなものであるならば、個別株主通知は、少数株主権等の行使が終了するまでの間に、すなわち、裁判外の権利行使の場合は、その行使期間内に行われなければならず、さもなければ、会社は権利行使資格を欠く旨を主張できるとするのが素直な解釈であろう(西村欣也「少数株主権等の行使と個別株主通知の実施時期」判例タイムズ一三八七号〔二〇一三年〕四五頁~四六頁、島田志帆「振替株式の権利行使方法と今後の課題」立命館法学三三八号〔二〇一一年〕二九七頁、山本・前掲一〇〇頁~一〇一頁、島田志帆「個別株主通知の実施時期」立命館法学三五〇号〔二〇一三年〕二七一頁、来住野・前掲三七頁など参照)。この点に関連して、株主提案権(会社法三〇三条一項・三〇五条一項)は少数株主判 例 研 究109権等に該当するとした上で、当該権利を行使するための個別株主通知は、株主提案権の行使期間である株主総会の日から八週間前までにされることが必要であると判示した裁判例(大阪地判平成二四年二月八日判時二一四六号一三五頁)もみられるところである。 また、反対通知の期間が法定されている趣旨は、会社が当該期間の経過時に株主総会決議による承認の要否を判断できるようにすることにより、株式交換のスケジュールの設定に係る会社の便宜を図ることにあると理解されるところ、そうした趣旨を全うするためには、個別株主通知も当該期間内に行わせる必要がある。さらに、それを株主に要求しても、実務上、株主が証券会社等に個別株主通知の申出をした後、会社に個別株主通知がされるのは、標準的な日程では四営業日後であるとされているため(証券保管振替機構「個別株主通知に関するQ&A」〔二〇二四年四月〕一頁)、特別な事情がない限り、株主に特に大きな不利益を生じさせるわけではない。 なお、個別株主通知は反対通知に先立ってされる必要があるか否かも問題になり得る。しかし、反対通知の期間内に個別株主通知がされる限り、個別株主通知が反対通知の後になっても会社に不利益は生じないこと、そして、個別株主通知の申し出をした株主にとって、振替機関から発行会社に対して個別株主通知がいつされるのかを申し出時点において正確に把握することはできない上に、反対通知の期間が法定されているため、株主に対し、個別株主通知がされた後になってから反対通知をするよう求めるのは酷であること、および、個別株主通知が権利行使要件(効力要件)ではなく株主権行使資格を設定するものであることからすると、個別株主通知は反対通知に先立ってされる必要があるとまではいえないであろう(前掲・大阪地判平成二四年二月八日、島田・前掲立命館法学三五〇号二六八頁~二六九頁参照)。 これらのことを勘案すると、個別株主通知の時期についても本決定の解釈を支持してよいと思われる。⑶ 考えられる反対論とそれに対する再反論 以上の議論に対しては、以下のような反対論も想定される。第一に、株主の申出後に休日がある場合は、会社に個別株主通知がされるまでにその分多くの日数を要することになる上に、実務上、証券会社等によっては、株主の申出後、会社に個別株主通知がされるまでに一〇営業日程度を要する場合もあるとされるため(証券保管振替機構・前掲法学研究 98 巻 9 号(2025:9)110一頁)、そのように株主がコントロールできない事情によって、株主の権利行使の機会が奪われるのは不当であるという反対論が考えられる。第二に、上記第一の反論とも関連するが、二週間という反対通知の期間が法定されていることについては、株主の熟慮期間を確保するという意味もあると考えられるため、この点を重視すると、二週間以内に(会社に個別株主通知がされていなくても)株主が証券会社等に個別株主通知の申出をしていればよい(会社に対する権利行使が認められる)と解すべきであるという反対論もあり得る。 たしかに上記第一の反対論には相応の説得力が認められるが(こうした反対論を立法論との関連で主張するものとして、岩原紳作「個別株主通知と株主名簿制度」尾崎安央ほか編『〔上村達男先生古稀記念〕公開会社法と資本市場の法理』〔商事法務・二〇一九年〕二一四頁~二一六頁参照)、かかる場合における株主の保護は、後述するとおり、特別の事情が認められる場合において、例外的な取扱いを認めることによっても一定程度対応し得ると考えられる。この点に関連して、本決定は、個別株主通知が反対通知の期間経過後にされた場合における反対通知の効力を、すべからく一般的に株主と会社との利益衡量によって判断することは妥当でない旨を述べる(決定要旨三)。ただし、こうした判示は、特別の事情がある場合に例外的に取扱いをする余地を否定することまで意図したものではないと理解される。 また、上記第二の反対論に対しては、先に述べたような本決定の合理性を支える根拠を差し置いて、そこまで強く株主の熟慮確保という要請に応えるべきであるとまでは言い難いという再反論が可能であるように思われる。すなわち、先に触れたように、株主が証券会社等に個別株主通知の申出をした後、会社に個別株主通知がされるのは、標準的な日程では四営業日後であるとされているため、反対通知の期間内に個別株主通知がされることを要するとしても、特別な事情がない限り、株主の熟慮期間が大きく不足するとは考えにくいこと、および、特別な事情がある場合については例外的な取扱いをすることによって対応できることをも勘案すると、政策的合理性という面では、本決定の解釈を採用して、反対通知期間の経過時に会社が株主総会決議による承認の要否を判断できるようにすることと、上記第二の反対論を採用して、株主の熟慮期間の確保をより重視することのいずれが妥当かについて、決定的なことは言い難い。そうであるならば、個別株主通知の法的性質が株判 例 研 究111主権行使資格を設定するものであることを重視して、本決定の解釈を支持するのが妥当であろう。⑷ 特別な事情がある場合における例外的な処理の可能性 既述のとおり、証券会社等によっては、株主の申出後、会社に個別株主通知がされるまでに、標準的な日程(四営業日)を超える日数(最大一〇営業日程度)を要する場合もあるといわれる。また、株主の申出後に多くの休日がある場合は、会社に個別株主通知がされるまでに、その分多くの日数を要することになる。 それらの特別な事情のゆえに、原則的な取扱いを貫徹すると株主の利益が著しく害されるような場合は、会社の予測可能性を害しない範囲で、株主の利益を保護する必要がある。そのため、上記のような特別な事情のゆえに、会社に個別株主通知がされたのが反対通知の期間の経過後になった場合において、会社がそのことを当該期間の終期の時点で容易に予測できたであろうと考えられるときは、会社が当該株主について株主権行使資格がないことを主張することは信義則上許されない(この結果、当該株主は会社に対して適法に株主権を行使できることになる)と解する余地はあると思われる。なぜなら、このような形での例外的な取扱いであれば、個別株主通知は反対通知の期間内にすることを要するとする解釈の根拠として挙げた、上記のこと(個別株主通知の法的性質、株式交換のスケジュールの設定に係る会社の便宜、および、株主の利益が著しく害されないこと)と抵触しないと考えられるからである。 ただし、少なくとも本件については、本決定も判示するとおり、Xの申出後、会社に個別株主通知がされるまでに要した日数は標準的な日程のそれである上に、その他、原則的な取扱いを貫徹すると株主の利益が著しく害されることを示す特別な事情は見当たらないため、上記の例外的な取扱いをすべき場合には該当しないというべきであろう。⑸ 上記の議論の射程 上記の個別株主通知に関する議論は、簡易株式交換を含む簡易組織再編の手続に対する株主の反対通知のほか、支配株主の異動を伴う株式発行・新株予約権発行や簡易事業譲受けの手続に対する株主の反対通知(会社法二〇六条の二第四項・二四四条の二第五項・四六八条三項)についても基本的に妥当すると考えられる。(二〇二五年六月二九日脱稿)久保田 安彦
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中国共産党研究四十年
75中国共産党研究四十年最終講義中国共産党研究四十年高 橋 伸 夫1 革命政権と国際社会の関係に関する問題2 「散漫な」党組織の勝利という逆説3 「服務中心資料」との出会い――人民共和国史の世界へ4 『構想なき革命』について こんなにも多くの方々にお集まりいただき、たいへん光栄に思います。本日は、私の恩師である山田辰雄先生にご出席いただいただけでなく、わざわざ中国から何人もの先生方にお越しいただきました。深く感謝申し上げます。 実をいえば、私はそもそもこれほど多くの方々を集めて、盛大に最終講義を行うことなどまったく考えておりませんでした。しかし、ゼミのOBたちとの話の成り行き上、かくも華々しい会合になってしまったのです。こうなった以上、こんなこともあった、あんなこともあったというたんなる雑談で、お茶を濁すわけにはいかなくなりました。いくらかでも意味のある話をしなければなりません――できるかどうか、はなはだ心許ないのです76法学研究 98 巻 9 号(2025:9)が。今日の話の趣旨は、中国共産党に関するこれまでの自分の研究――それは主として歴史的な研究ですが――について、主として問題設定の仕方、方法論、そして資料の組み合わせという角度から振り返ってみるということです。いわば研究の種明かしです。これら三つの調和のとれた組み合わせが、研究の構想段階であらかじめ用意されているなどということは、まずありえません。問題設定と方法論が先行する場合もあれば、資料のほうが先行する場合もあるでしょう。私の場合、まだ若くて駆け出しの頃は、問題設定が最初に来て、それに合う資料を探していたのですが、経験を重ねるにつれて、資料のほうに問題設定を触発される場合のほうが多くなりました。もっとも、これは頭のなかのどこかに、まだうまく言語化されていない問題が先にあって、何となくそれに適合的な資料を求めていたから、それが見つかったということなのかもしれません。いずれにせよ、これは鶏が先か卵が先かという話に似ています。このような話が、皆さんにとってどれほどの価値をもつかはわかりません。せめて、皆さんの読書の一助となればと願うだけです。 本題に入る前に、なぜ私が中国研究の世界に足を踏み入れることになったかについて、ひとことだけ述べておこうと思います。それはひとえに、私の父方の家族の影響を受けたからです。私の祖父は、日中戦争当時、満州日日新聞社に勤めておりました。最後は、発行責任者という肩書だったと聞いています。父親は大連生まれの大連育ちです。そうした関係で、子供の頃からよく中国の話を聞かされ、気がついてみたら、中国共産党の研究をやるようになっていたというわけです。ひとつだけ、わが家族に伝えられている祖父の武勇伝を紹介しますと、一九三〇年代末、ある日の夜、彼が例によって大連のバーで酔っ払って、突然あたりかまわず「インターナショナル」を歌い始めた。すると、運悪く、そのバーにいた客のなかに満鉄総裁の松岡洋右の甥がいたのです。当然のように、この甥は、「貴様、この時局に何たる歌を歌うか!」とつっかかってきたため、取っ組み合いの喧嘩が始まります。幸い、わが祖父は大柄で力も強かった。そして最後には、この甥を柔道の技で締め落としたとの77中国共産党研究四十年ことです( ( (。もちろん、祖父は駆け付けた警察官に連行されて何日も留置場に入ることになりました。祖父は、終戦後すぐに大連で何者かによって誘拐されます。結局、身代金を払って解放されたのですが、祖父が誘拐されたことを知った祖母はといえば、旦那の毎晩の夜遊びにひどく憤慨していたようで、旦那のことを心配するどころか、「ざまあみろ」といったそうです。 私の父親は、戦後日本に引き揚げてくる前に、ソ連軍接収下の南満州鉄道で電気技師として働きました。ロシア人と一緒に働いていたのです。ウクライナからやって来た農民出身の兵士たち、自分がどれだけウオッカを飲めるかを競い合っていた少年兵たちとともに働いていたらしい。父は、ロシア人からもらったパンで、どうにか家族は飢えずに済んだといっています。こんな話を子供の頃から聞かされていたら、中国と歴史に興味がわかないなどということがありうるでしょうか?1 革命政権と国際社会の関係に関する問題 さて本題に入ります。私は、筑波大学で修士論文を書いた際、中国共産党の延安時期の外交政策をテーマとしました。延安時期は、共産党はまだ国家を樹立していませんでしたから、厳密には「外交政策」とはいえません。しかし、ともかくも、党指導部のソ連とアメリカに対する政策を取り上げたのです。これは、正直にいえば、よく考えて選んだテーマではありませんでした。若い大学院生にありがちなことですが、修士論文のテーマになりそうなものを選んだだけのことです。そして、この延長で中華人民共和国建国前後の時期における中ソ関係についての博士論文を書くことになります。当時、筑波大学には徳田教之先生がおられ――『毛沢東主義の政治力学』という著作で知られる慶應義塾大学出身の先生です――中国研究の分野で博士課程に進むなら、慶應がよい78法学研究 98 巻 9 号(2025:9)だろうというので、博士課程では幸運にも、山田辰雄先生の指導を受けることができたのです。 博士課程で勉強をしているうちに、ようやく自分のやっていることの意味が理解できるようになってきました。それは一言でいえば、革命政権が誕生して、国際社会にデビューしたときに、その政権が自分自身に課した使命や革命政権としてのアイデンティティと、国際環境がその新しい政権に課した構造上の制約とがどのように調整されたかという問題でした。現状打破を掲げて誕生した革命政権は、国際社会に登場したとき、どこまで革命的でいられるのでしょうか? このような問題設定それ自体はとくに新しいものではなかったのですが、それまでの中国政治の研究においては、必ずしもバランスのとれた形で検討されてきませんでした。というのも、中国共産党と国際環境の関係を考えたとき、共産党の外的条件に対する適応という側面よりは、むしろ国内政策の対外政策の領域への投射という側面がかなりバランスを逸した形で強調されてきたからです。そこで、私は革命の国際秩序への適応という側面をクローズアップする形で描く――でも、革命政権としてのアイデンティティも重視しながら描くことによって――バランスの取れた歴史の理解が可能になると考えたわけです。 その場合、どんな方法を取ったかということですが、こういう方法を取りました。つまり、中国共産党の国際情勢認識を形作る概念と命題は、基本的にソ連から与えられたものだったのですが、ソ連から受容するように迫られた認識枠組に対して、中国共産党が示す特徴的な反応に注目したのです。ソ連から与えられた認識枠組に対して、中国の共産主義者たちは、一見するときわめて従順に従うのだけれども、よく調べてみると、その認識枠組には巧妙に独自の修正が加えられていて、ある場合には、その実質を失ってさえいる。なぜそうなるかといえば、ソ連によって与えられた共産主義者としての国際的任務から、中国における革命戦略の自立性を防衛する必要があったためです。そこで、ソ連から与えられた国際情勢認識の枠組のなかに巧みに織り込まれた独自の要素を抽出することによって、中国共産党が革命における国際的契機と国内的契機をいかに調整しようとしたかを浮79中国共産党研究四十年き彫りにできると考えたのです。 研究のハイライトになったのは、第二次世界大戦後の国共内戦期、つまり中国革命の最終局面において――これはまさに東西冷戦が姿を現す時期と重なっていたのですが――中国共産党が冷戦に対してどのような態度を取ったかということでした。中国共産党が、次第に姿を現す冷戦構造のなかで、すんなりとソ連を先頭とする社会主義陣営の側に収まり、アメリカを先頭とする資本主義陣営と対抗するなどということがありえなかったことは、少し考えればすぐにわかります。というのも、共産党は国内で盛り上がるナショナリズムを味方につけて、内戦に勝利しようとしていたからです。つまり、反帝国主義、反植民地主義を掲げて民族の自律性を回復するというのが彼らの旗印だった。だから、蔣介石の国民党に対して、おまえたちはアメリカに従属する勢力である、売国的勢力であるという批判を投げつけていたのです。ならば社会主義陣営の側について、ソ連に従属することが簡単に許されるはずはありませんでした。しかし、そうはいっても、冷戦構造の圧力は簡単に払いのけられるようなものではなかった。そこで、中国の共産主義者は深く苦悩します。この苦悩を描いたのが、私の博士論文の最も重要な部分だったのです。結局、一九四九年六月末、毛沢東が有名な「一辺倒」宣言を出して、新中国は社会主義陣営の側に立つとはっきり述べるのですが、実はこのときでさえ、中国共産党は社会主義陣営に対する完全な服従を取り繕いながら、なおもアメリカをはじめとする資本主義国との関係を残しておく道を模索していたというのが、私の重要な論点のひとつだったのです。こうした問題が、今日の国際政治学でいう、コンストラクティビズムという立場につながっていることに気がついたのは、博士論文を出したずっと後のことでした。 この研究は、一九九六年に私のはじめての著書となって刊行されましたが、今日からみて、問題設定は悪くないけれども、当時の資料的限界を反映しています。現在なら利用可能なスターリンと毛沢東の間でやりとりされた電文などをまったく利用できなかった。そのために、残念ながら今日ではもはや読む価値はありません。マイ80法学研究 98 巻 9 号(2025:9)クロフィルムになった資料をほんとうに真剣に読んだのですがね。中国共産党の機関誌のひとつである『群衆』など、資料の重要なものは、ハーバードのイエンチン図書館で集めました。しかし、そこに置いてあったコピー機がひどくて苦労しました。字がかすれてよく読めないのです。しかも、自分でコピーした紙の束を図書館のカウンターにもっていって、一枚七セントで計算してお金を払うのですが、係の人間が計算ができないわけです。例えば、一六枚持っていくと、七かける一六枚だから、一一二セント、一ドル一二セントになるのだが、相手は絶対一ドル二セントだといって譲らない。そこで、私はニヤリとして、ああ私が計算を間違った、一ドル二セントだといって少し得をする。そんなことがよくありました。2 「散漫な」党組織の勝利という逆説 ところで、この本を出す前の一九八九年に私は京都外国語大学に就職しておりました。天安門事件が起こった年です。そして京都に七年間おりました。当時の京都はいまと違って、観光客であふれかえっているわけではなく、とても住みやすかった。とはいえ、就職したとはいっても、ちょっとした手違いが起こって――それについては詳しく申し上げませんが――はじめから専任講師になれたわけではなく、大学の図書館の嘱託職員として二年近く勤めたのです。毎朝九時に出勤して、タイムカードに出勤時間を記録し、夕方五時まで仕事をした。大学図書館は夜九時まで開いていますから、週に一度は遅い時間まで働きました。天安門事件が起きた当日、私はいつものように図書館の地下にこもって、図書カードの作成をやっていました。「ああ、自分はこんな時に何をやっているのだろう」と思ったことを覚えています。 しかし、悪いことばかりではありませんでした。図書館員をやっている時に、いろいろな書店の人と親しくな81中国共産党研究四十年りました。そしてある日、京都の朋友書店という中国書籍専門店の人が、「たまたまこんなものが手に入ったけれども、興味ありますか」といって大量に持ってきたのが、『革命歴史文件彙集』だったのです。 この資料集は、一九二〇年代から三〇年代にかけて、中国共産党が各地の農村部で築きはじめた革命根拠地に関する内部資料を集めたものです( ( (。当初、私はまったくその価値がわからず、何となく福建省の根拠地に関する資料から読み始めたのですが、その内容に非常に大きな衝撃を受けます。そして、もはや外交政策の研究などどうでもよいとさえ思うに至ります。そして、ここから私の研究の第二ラウンドが始まりました。 この資料集から何が浮かび上がるのか? 一般的には、毛沢東が作り上げた中国共産党の組織、そして共産党の軍隊(紅軍)は、蔣介石が作り上げた国民党の組織および軍隊とは大きく違っていたと考えられてきました。少なくとも中国共産党自身はそう主張してきましたし、日本とアメリカの研究者たちも長い間そう考えてきました。共産党は国民党と違って、厳格な規律を備えており、よく統率が取れていて、党員たちおよび兵士たちは党が掲げた大義に忠実だった。だから、共産党は国民党を打ち負かし、中国大陸の支配者になることができたのだ、と。ところが、『革命歴史文件彙集』は、そうしたイメージを根底から揺さぶる衝撃力をもっていたのです。 この資料が示すところ、党員たちは実に簡単に入党しては、次々にやめていきました。多くの報告書は、党組織はまるで宿屋のようだと述べている。つまり、たくさんの党員が今日「宿泊」したと思ったら、明日の朝にはいなくなってしまうというのです。したがって、メンバーの流動性が非常に大きい組織です。党員集会の様子についてもたくさんの記録があります。それによれば、党員と非党員と元党員が一緒になって「党員集会」をやっている。だから、党組織の外延が、つまり内と外を分ける境界がはっきりしていないのです。 もっと衝撃的な事実は、各地の党組織が行っていた資金集めの方法です。戦争には何といってもお金が必要ですが、革命にも必要です。一九二一年に成立してから何年かは、中国共産党の収入の大部分は、コミンテルンか82法学研究 98 巻 9 号(2025:9)ら与えられた資金でまかなわれていた。しかし、一九二七年夏に国共合作が崩壊して、共産党が農村に放り出されてしまうと、モスクワから資金が届かなくなってしまいます。さて共産党はどうしたか? どの革命根拠地でも事情はまったく同じなのですが、党組織は地主あるいはその家族を誘拐し、身代金を得ることによって革命の台所を賄っていました。つまり、営利誘拐が共産党の革命を財政的に支えていたのです。一九三二年、河南省のある県の党委員会の報告書が述べるところ、一度地主の誘拐が成功すると、数ヵ月分の活動費用を賄うことができる、と。だから、やめるにやめられなかったのです( ( (。広東省の党組織は、生きている地主だけでなく、死んだ地主の墓を掘り返して、その死体まで誘拐していました。資料には、共産党が営利殺人に手を染めているとの報告さえ見られます。農村で、対立する二人の地主の一方から金をもらって、他方を始末していたのです。 以上は党組織に関することですが、紅軍に関する資料もたくさんあります。実に多くの文書が、兵士の逃亡について語っています。部隊の兵力の四分の一、ときには三分の一までもが、逃亡によって失われていると記されている。だから、中国のドラマに登場する紅軍兵士の勇敢な姿とは大きく違っています。なぜそれほどまで多くの兵士たちが逃亡したのか。それは、もともと農民である彼らが、自分の村から離れたくなかったからです。皆さんもご存じのように、中国共産党の伝家の宝刀は土地改革です。地主から土地を奪って貧しい農民に分け与える。たしかに共産党は革命根拠地で土地改革を試みました。ところが、多くの農民たちは、土地を受け取ったら、それで「革命」なるものは終わったと考えた。彼らは、わざわざ自分たちが暮らす村から遠く離れた場所に行って戦争などやりたくなかったのです。 もうひとつ、兵士たちが村に逃げ帰ったのは、村に残しておいた自分の奥さんが心配で仕方がなかったからです。うっかりしていると、大事な女房をほかの男に取られてしまう心配があった。なぜそんなことが起こるのか。中国共産党が掲げた重要なスローガンのひとつは、結婚と離婚の自由でした。これは長い中国の歴史において、83中国共産党研究四十年実に画期的なことです。まさに革命の名に値するものだったといってよい。共産党が村にやってきて、さあ皆さん、これからは結婚も離婚も自由ですと宣言すると、一斉に女性たちが自分の夫に三下り半を突きつけます。それは、彼女たちの結婚が、すべて親の決めたものだったから当然です。離婚を突きつけられた夫たちは、女房に暴力をふるって離婚を阻止しようとする。女性たちはそれでも離婚して、別の男と新しく結婚しようとします。若い男たちの多くは、当然、こうした動きを歓迎します。貧しい農民にとって、結婚など夢のまた夢だったからです。この資料集には、前線で戦っている兵士の女房を、共産党員たちが奪っているという記述が少なからず登場します。その結果、革命根拠地の農村では、離婚、結婚、再婚、再再婚が繰り返されて、連日、上を下への大騒ぎとなります。当然のように、梅毒も蔓延しました。このような情景をみると、当時の中国農村の若者にとって、革命というのは、第一義的に、女性を獲得することだったのではないかと思えてきます。実際、地方党組織の報告書の多くは、自分たちは国民党との闘いよりも、結婚問題の処理のほうに多くのエネルギーを割いている、と述べています。 この資料集について、まだお話したいことはたくさんありますが、時間の関係でこれくらいにしておきます。結局、『革命歴史文件彙集』が何を語っているかといえば、中国共産党の組織、そして軍隊は国民党のそれと本質的に違いは見当たらないということです。どちらの組織もルーズで、あまり統制がとれておらず、腐敗している。われわれはこれまで長い間、共産党と国民党の違いについて語ってきたのだけれども、この資料集の内容を踏まえると、むしろ類似性のほうが際立っているのです。それどころか、共産党組織を軍閥の組織と同じ平面において比較考察するという可能性にさえ道を開いています。 こうして私は、一九九〇年代終わりから二〇〇〇年代初めにかけて、日中戦争期を迎える前の中国共産党の党組織の性格について、いくつかの論文を発表しましたが、当時の学会での受けとめ方はまったく冷ややかなもの84法学研究 98 巻 9 号(2025:9)でした。そもそも共産党と名の付く組織が、そんな性質をもつはずがないという批判をさんざん受けました。賛成してくれる人がほとんどいなかったので、私も次第に自信を失いかけたのですが、よく考えた末に、やはり自分は大きく間違ってはいないと思えるようになりました。そもそもロベルト・ミヘルスやフランツ・ボルケナウがいうように、ヨーロッパ諸国の社会民主主義政党や労働者政党でさえ厳格な組織を実現することができず( ( (、また中国国民党もそれに失敗していたというのに、どうしてこれらの組織より経験に乏しく、またもっと扱いにくい素材(すなわち農民)から作り上げられ、しかもより困難な客観的諸条件(広大な地理的空間と貧弱なコミュニケーション手段)のもとに置かれた中国共産党に、より「共産党らしい」組織が可能であったなどといえるでしょうか? なるほど、中国共産党の頂点部分は、コミンテルンとしっかりつながっていた。しかし、党組織のピラミッドを下に行けば行くほど、ヨーロッパ近代とのつながりは問題にならなくなります。そして、中国の長い伝統とのつながりのほうが、はるかに大きな重要性をもってきます。そのために、一般党員たちは、「党」なるものをイメージする際に、おそらく伝統的な秘密結社や匪賊組織しか参照枠をもっていなかったに違いないのです。 いまや私は、かなりの自信をもって次のように主張することができます。すなわち、一九二〇年代から三〇年代にかけて、中国共産党の組織は、およそレーニン主義的な「固い」組織ではなかった。党指導部の意図に反して、末端部分ではひどく「ルーズな」組織ができあがっていた。党組織は、外部に対して比較的高い開放性を備えていた。加えて、党内における情報伝達が垂直的にも水平的にも分断されがちであったために、党組織が全体として低い凝集力しかもつことができなかった。さらに、党員たちが自ら去り、病気で死に、粛清されることで常に入れ替わったために、組織の流動性が高く、彼らと非党員との間の価値・世界観および行動様式の境界は曖昧だった。要するに、まったく共産党らしくない組織だったのです。 『革命歴史文件彙集』は、従来の党組織のイメージを大きく変えただけではありません。中国革命そのものの85中国共産党研究四十年イメージをも大きく揺さぶったのです。これまでの中国共産党の公式の歴史において、共産党と農民はきわめて幸福な結婚をしたと示唆されてきました。共産党は農村で土地改革をはじめとするさまざまな社会改革を試み、農民たちがそれを大いに歓迎したことから、両者の間に強い結びつきが生まれた。その結果、農民は共産党に対して、熱烈で、持続的で、全面的な支持を与え、両者は手に手を取って伝統中国を全面的に改造していったのだ、と。これが中国におけるオフィシャル・ヒストリーの基本的な語り方です。そして、日本でもアメリカでも、研究者たちはこのような語り方を受け入れて、共産党と農民の強い結びつきを生んだ究極の要因は何だったか――ナショナリズムか、それとも小作料や借金の減免か、などと議論してきました。しかし、『革命歴史文件彙集』は、中国共産党が出している資料集でありながら、そうした見方を実質的に自ら否定しています。そもそも、この資料集は、共産党が農村で党員とした人々のなかに、農民とはいえないような人々が少なからず含まれていたことを自ら暴露している。地主、商店主、そして匪賊集団や秘密結社のメンバー、さらには無宿者、ごろつきといった人々です。中国語でいえば「社会閑雑」(役立たず)と呼ばれるような人々です。要するに、主として労働者階級をメンバーとして集めなくてはならないはずの共産党が、いわば階級的雑居状態となっていた。そして、先ほども言ったように、党員たちは入党した後、すぐにやめていったのです。 それは、党の周辺にいて党を支持したと思われる人たちも同様です。支持は長続きしないのです。例えば、いくつかの資料に描かれていることですが、多くの農民が紅軍の食料集め――これは国民党支配地区での略奪だったとみられますが――を助けるために、兵士についていく。しかし、農民たちは目的地に着くと自分たちで勝手に略奪を始め、食糧の確保に成功すると、紅軍のことなどお構いなしにどこかに去っていく。彼らは紅軍を自分たちの目的のために勝手に利用していたのです。したがって、われわれは、人々が共産党に対して与えたとされる「支持」についてあらためて考える必要があります。いまや、私は次のように主張することができます。中国86法学研究 98 巻 9 号(2025:9)の農民は共産党に対して熱烈で0 0 0、持続的で0 0 0 0、全面的な0 0 0 0支持を与えたのではない。むしろ、農民は共産党に対して冷めた0 0 0、その場限りの0 0 0 0 0 0、条件的な0 0 0 0支持を与えたと考えたほうがよい、と。 これがたいへん議論を呼ぶ主張であることは、皆さんもすぐにお分かりのことと思います。いま申し上げたような見方は、歴史解釈上の厄介な問題にわれわれを導くからです。どういう問題かといえば、もし毛沢東の党と蔣介石の党の間には違いよりも共通点のほうが際立っていた、そして共産党は農民と特別な関係を築くことができなかったとすると、共産党はどうして最終的に革命で勝利を収めることができたのか、ということです。こうして、中国革命のプロセスと結果に関する研究を、これまでよりも一段高い地点で振り出しに戻してしまった――これが、私が二〇〇六年に出した『党と農民』という本の意義でした。 それにしても、なぜかくも杜撰にみえる組織が、農民たちの限定された支持を頼りに、最終的には国民党を押しのけて中国大陸の支配者となったのでしょうか? 共産党の勝利に歴史的な必然性などなかった、それは主として偶然に助けられた勝利だったかもしれない、と私も考えないわけではありません。サッカーの日本代表だってスペイン代表に勝つことはあります。一〇回試合をやって、九回は勝てないでしょうが、一回は勝てるかもしれない。この「たまたまの一回」こそが共産党の勝利だったのではないか。兵力と装備の面では圧倒的な優位に立っていた国民党側のおごりと、内部の腐敗が勝敗を左右した、つまり国民党側のオウンゴールで共産党は幸運にも勝利を収めたのではあるまいか、と。 でも、日本代表が三年前にスペイン代表に勝てたのには、やはり理由があります。選手たちの育成方法、彼らのたたかう精神、体力、技術、戦術、試合に合わせたコンディショニングなどなど。彼らは決して幸運だけに頼って勝利を収めたわけではないでしょう。同様に、中国共産党にも勝利を可能にした何らかの条件が備わっていたはずです。果たして、それは何であったか? 残念なことに、『革命歴史文件彙集』は、どの根拠地について87中国共産党研究四十年も共産党が長征を開始した一九三三年、あるいは三四年までの資料を収録しているにすぎません。だから、日中戦争の時期において共産党がどのような組織的発展を遂げたのか、そして共産党と民衆の関係にどのような変化が現れたのかは、まだよくわからないのです。この資料に匹敵するような高密度の資料を、われわれはまだ手にしていません。したがって、今のところは、日中戦争時期にいかなる変化が現れたのかを予想できるだけです。つまり、過去を予想するということです。 幸いなことに、またあとで申し上げますが、『中共重要歴史文献資料彙編』という資料群のなかに、いくつか一九四〇年代の党組織の様子を物語る資料があり、それをいま大学院生の諸君が読んでくれています。彼らの報告を聞く限り、共産党の組織的姿は一九三〇年代と大きく違っているようには見えません。「散漫な」党組織は、多少厳格さを増しているようにみえるけれども、やはり「散漫な」性格をとどめている。加えて、根拠地の人々は共産党が思うようには動かない。だから、延安で行われた大生産運動も、生産運動としては成功しておらず、共産党の財政はアヘンの輸出に依存している。しかし、重要な変化がないわけではない。特徴的なことはといえば、先ほど言った「社会閑雑」と呼びうる人々、それから共産党と国民党との間でどっちつかずの態度をとる人々の扱いに習熟しているようにみえることです。つまり共産党が、ルンペン・プロレタリアートであれ革命勢力に対して曖昧な態度をとる人々であれ、彼らと互いに依存する関係となって、彼らを一時的にでも革命のために利用する術を身につけているようにみえるということです。 これはおそらく共産党が、われわれが理解している意味での近代的な政党になりきれず、伝統的な社会集団という組織的性格をもっていたために可能となったことです。でも、その一方で、たしかにコミンテルン流の規律もまた持ち込まれている。それは延安整風運動のときに顕著に現れるのですが、党員に対して容赦なくテロルを用いる。つまり、一九四〇年代の共産党は、一方において依然として古く伝統的な中国の社会集団の特徴を備え88法学研究 98 巻 9 号(2025:9)ているけれども、他方において新しいのです。このような組み合わせは、蔣介石の国民党ではありえなかったかもしれません。国民党は伝統的な社会集団であるよりは新しかったし、他方、レーニン主義的な政党としてはまったく不十分だったからです。とはいえ、先ほどの問題は、中国現代史の最大の問題としてまだ残っています。3 「服務中心資料」との出会い――人民共和国史の世界へ さて、二〇〇六年に『党と農民』という本を出して、革命史の問題にひと段落つけた後、私は数年間、中国における市民社会の可能性という理論的な問題領域にひたりました。中国が胡錦濤政権の時期を迎えており、民主化の展望という問題について熱心な議論が行われていた時期だったからです。でも、二、三本論文を書いた後でまたしても研究上の大きな転機が訪れます。それはアメリカで、とんでもない資料集に出会ったからです。資料の正確な名称は『中共重要歴史文献資料彙編』。ロサンゼルスにある中文出版物服務中心というところから発行されています。この「企業」は所在地がわからず、連絡先はGメールのアドレスのみ。したがって、企業情報も一切不明です。この得体の知れない企業が、一九九六年から中国共産党および政府の内部資料を、どうやって手に入れたかはともかく、大量に集めて印刷し始めたのです。そのために、私はこの資料集を勝手に「服務中心資料」と呼んでいます。この資料群は現在、ハードカバーの付いた本の形で、八〇〇〇冊以上ある。そして、いまもなお増殖中です。 私はこの資料群の存在に、二〇一二年冬になるまで気が付きませんでした。中国共産党の研究をやっているというのに、こんなに大事な資料の存在に気がつかなかったなんて、実に間の抜けた話です。その存在を初めて知ったのは、バークレーにできたばかりの東アジア図書館ででした。ちょうど家内がバークレーのロースクールに89中国共産党研究四十年留学していたので、クリスマスに彼女に会いにバークレーに行ったのです。図書館の書架の間を歩いているうちに、なにやら簡易製本されただけのコピーの山が大量に並んでいるのを見つけた。なんだろうと手に取って眺めたら、なんと新疆イリ地区の党委員会の資料だった。これは普通の資料ではないと直感しました。そこで私は家内と一緒に、写真に撮れるだけの資料を写真に撮り、そしてこの資料について調べ始めました。すると、アメリカのいくつかの大学――バークレー、スタンフォード、UCLA、ハーバード、ノースウエスタン、プリンストン、そしてオーストラリア国立図書館がこの資料をもっていることが分かります。そして、最大のコレクションはUCLAの東アジア図書館にあることが明らかになりました。 そこで、私は家内にバークレーからUCLAまで行ってもらって、そのコレクションがどのように利用できるのか見てきてもらいました。すると、その図書館は入館証がなくても、だれでも利用できること、開架式の書架に並べられていて、好きに手に取って閲覧できることがわかったのです。こうして、二〇一三年から、慶應グループの一年一回のUCLA詣でが始まりました。毎回、五、六人の撮影部隊を組んで四泊五日程度の日程で撮影してくる。その結果、現在、慶應の中国研究センターのコンピューターにはおよそ一五〇〇点を超える文書が蓄えられています。これが私の東アジア研究所所長としての最も重要な貢献でした。 ともあれ、この資料集は、実にさまざまな方面の資料を含んでいるために、多くの研究を可能にしてくれます。そのひとつは、中国共産党組織の社会学的研究です。かつてロベルト・ミヘルスがドイツ社会民主党について行ったような、党組織がどのように社会に根差しているか、およびそうした根差し方の変化を明らかにするような研究です。これは、ゼミの学生諸君にも参加してもらいました。資料集に収められていたデータを使って、さまざまな図表を作成してもらったのです。これはいわば中国共産党の「からだ」と「こころ」の変化について語る試みです。「からだ」というのは、党組織がいかなる社会的成分から成り立っているかということであり、「ここ90法学研究 98 巻 9 号(2025:9)ろ」とはそのような「からだ」をもっているがゆえに、備えざるをえない心性を指しています。つまり、存在が意識を形作っているという唯物論的な想定に基づく研究です。図1は試みに作ってみた学歴別の党員数の変化に関する図表です( ( (。 そして図2は、党員全体が高齢化し、退職者の割合が大きくなっていることを物語るものです。こうして一九四九年から二〇〇〇年までの中国共産党の「からだ」に現れた変化を観察した後、得られた暫定的な結論はこうです。一九四九年から二〇〇〇年にかけて、党員の社会的背景は明らかに多様化した。建国当初、中国共産党は「農民の党」であったが、改革開放が始まる頃には、もはやいかなる階級の代表でもなかった。一九八〇年代半ばには、ホワイトカラーがはっきりと党内の中核部分を占めるようになった。包括政党に向かう傾向は、すでにこの時期から始まっていたのである。ビジネスエリートからも力を引き出そうとする江沢民の姿勢は、そのような傾向の必然的な到達点であった。いまや中国共産党はそれが統治する社会の縮図にほかならない。それは、いかなる階級の代表でもないと同時に、すべての階級を代表している。それは高齢の退職者の党であり、ホワイトカラーの党であり、労働者の党であり、農民の党でもある。そうであるがゆえに、この組織は身動きが取れない。つまり「左」にも「右」にも大きく舵を切ることができない。いかなる「偏り」も不能となった政党は、もはやいかなる大胆な理想も掲げることができない――強国の夢以外には。とはいえ、私は統計なるものにまったく疎いものですから、この研究は一切公表しておりません。しかし、服務中心資料は、このような研究を可能にしているのです。 さて、その他にもこの資料集には驚くべき文書がたくさん含まれています。そのひとつは、反革命粛清運動に関する文書です。これは、一九五五年に毛沢東が農業集団化を本格化させる直前に始めたたいへん大がかりな粛清運動で、これまで日本の研究者もアメリカの研究者もよく知らなかった運動です。この運動の全貌が、服務中91中国共産党研究四十年6019822000(%)(年)19831984198519861987198819891990199119921993199419951996199719981999大専以上中専高中初中小学文盲小卒+文盲01020304050図1 党員の学歴別割合 1982 ― 2000 年出所)『中国共産党党内統計資料彙編 1921 ― 2000』2002 年、52―53 頁の数値に基づき作成。2000(%)(年)198519861987198819891990199119921993199419951996199719981999024681012141618離休幹部退休幹部合計図2 中国共産党員に占める退職者の割合 1985 ― 2000 年出所)『中国共産党党内統計資料彙編 1921 ― 2000』2002 年、101―105 頁の数値に基づき作成。92法学研究 98 巻 9 号(2025:9)心資料によってようやく明らかになりました。私がいちばん驚いたのは、関連する文書のなかに中国共産党による殺人計画が含まれていたことです。これが一九五五年の全国公安会議で決定された一九五六年の殺人目標数です。人口の一定割合は必ず反革命的であるはずだと想定して、そうした不穏な分子が反革命行為を行う前に、あらかじめ物理的に除去しておこうとしたのです。この運動の概要と、それがもつ意味については『法学研究』に長い論文を書きました( ( (。 ところで、服務中心資料をまとめて眺めると、人民共和国期の暴力に関する資料が非常に多く含まれていることがわかります。反革命粛清運動に関する資料はそのひとつですが、それだけではなく、文化大革命が始まる直前の社会主義教育運動(四清運動)――これもかなり凄惨な暴力を伴う運動でした――に関する資料、文革後期の「五・一六兵団」を取り締まる運動、「階級隊列を整頓する」運動、「一打三反」運動、さらには文革が終わってからなおも執拗に続く「闘、批、改」運動など、実に豊富な資料があります。ついでにいえば、反右派闘争に関する資料も、気が遠くなるほどあります。そこで私は二〇二一年に出した『中国共産党の歴史』においては、人民共和国期において暴力とテロルが、いわば政治の通奏低音となっていることを指摘しました。もちろん、こうした現代中国史の「影の部分」は、それ自体としてきわめて重要な研究対象ですが、それと同時に、これほど大きな暗黒面を含んでいたにもかかわらず――あるいは含んでいたがゆえに、というべきでしょうか――中国が改革開放以降に目覚ましい経済成長を成し遂げたのは、いかなる理由によるのかについても考えないわけにはいきません。『中共重要歴史文献資料彙編』は、先に言及した『革命歴史文件彙集』とまったく同様に、われわれの中国現代史に関するこれまでの理解を大きく揺さぶり、攪乱するポテンシャルを備えています。だから、面白いのです。93中国共産党研究四十年4 『構想なき革命( ( (』について 最後に、自分が書き上げたばかりの本について――つまり、私の「卒業論文」について――少しだけご紹介しておこうと思います。いまちょうど印刷に回っています。これは文化大革命の始まりの物語です。 文化大革命は、なぜ、どのように始まったか? 私が探求を行うにあたっての基本的な想定は、毛沢東が文化大革命を始めるにあたって、構想と呼ぶに値するものを抱いていなかったということです。それが、この本の出発点でもあるし、到達点でもあります。これが議論を呼ぶ想定であることは、私もよく承知しています。というのも、これまで研究者たちのほとんどは、毛沢東が思い描いた構想に沿って準備・計画されたものとして文化大革命の始まりを説明してきたからです。すなわち、一九六二年一月、一九六二年七月、一九六五年一月、あるいは一九六五年春のいずれかの時点で、毛沢東が自分の忠実な部下であった劉少奇の打倒を決意し、そのために綿密な準備を行い、時機を見計らって彼の排除に乗り出すというストーリーが語られてきました。でも私は、このような語り方をまったく支持できないのです。私はこの本の至るところで、毛沢東の言葉遣いがいかにあいまいで、前後矛盾していたか、議論に奇妙な飛躍があったかを執拗に強調しています。そして、これほど自己矛盾に満ち、自らが立てた予定を何のためらいもなく次々に覆していく人物に、周到な計画など立てられるはずはなかったし、現に計画などなかったと主張しています。 つまり、毛沢東が文化大革命に向かう歩みは、「行き当たりばったり」だったということです。計画性のなさ、熟慮の欠如、無定見――これこそが彼の行為を特徴づけていたと主張しています。スタンフォード大学のアンドリュー・ウォルダーがこのような行為の本質を英語でどう表現するのがよいか教えてくれました。improvisation――事前の準備なしに即興で何かを作り上げるということです。彼のサジェスチョンに基づいて、94法学研究 98 巻 9 号(2025:9)この本の英語のタイトルは、An Improvised Revolution としました。 でも、そうなると厄介な問題が生じます。文化大革命への明確な意志も計画も戦略ももたなかった指導者が、なぜ文革へとたどり着くことになるのでしょうか。説明は一筋縄ではいかなくなります。この問題と格闘したのがこの本です。考察の根底に横たわっていたのは、ひとつの哲学的問題でした。すなわち、毛沢東が文化大革命へと行き着いたのは、偶然だったのか、それとも必然だったのかという問題です。ひとつの岩が、何らかの拍子で斜面を転がり始める。その岩は別の岩にぶつかり、立ち木にぶつかり、雨に濡れた苔に滑りながら、少しずつ方向を変えて落ちてゆく。そして、たまたま落ちた淵に文化大革命という名前がついていた――こういう偶然の連鎖の結果として文革の始まりを描くべきでしょうか? それとも、毛沢東が作り出しながら、でも彼自身が意識しないうちに出来上がってしまったある種の構造が、彼が意図するとしないとに関わらず、彼を文化大革命へと連れて行った――こうした必然の物語として文革の始まりを描くべきでしょうか? 私はきっと参考になるに違いないと思って、第一次世界大戦がなぜ勃発することになったかに関する本を何冊か読みました。この「起こりそうもなかった戦争」がなぜ起きたか、誰もそれを始める意図も計画ももっていなかったのに、なぜこの戦争が始まってしまったかを論じる本は、きっと参考になるに違いないと思ったのです。 苦しんだ結果、偶然の物語と必然の物語を組み合わせることとしました。物語のあらすじはこうです。一九五八年に始まる大躍進で、途方もない失敗を犯してすっかり面目を失った毛沢東が、それでも権威を失うまいとして、失敗を封印し、そしてもっと重大な問題に中国は直面していると主張しはじめます。どういう主張かといえば、社会主義中国でブルジョア階級が復活しようとしているという、かなり現実離れした主張です。私はこのような行為を「前方への逃げ」と呼んでいます。でも彼には長期的な展望などまったくありませんでしたし、自分の主張にも自信をもてなかった。しかし、彼の部下たちが、たしかに毛主席のいうとおりだ、「ブルジョア階級95中国共産党研究四十年があちこちで権力を奪い始めている」といいはじめ、そうした声が次第に大きくなったので、毛沢東は自信をもつようになります。私は、こうした毛沢東と部下たちとのやりとりを、少し滑稽に描いています。だから、この本は、中国が文化大革命という大きな悲劇にはまり込んでいく物語なのですが、たくさんの小さな喜劇が散りばめられています。 ともあれ、毛沢東が「前方に逃げて」いく過程で、文化大革命を生み出す条件が、意図されずに、ひとつひとつ用意されてゆく。言い換えると、文化大革命を構成する部品が、誰もそうだと気がつかないまま、ひとつひとつ準備されてゆきます。それらの集積がひとつの構造を形作って、毛沢東と彼の仲間たちを文革へと次第に近づけていきます。でも、それらの部品を全体としてまとめあげる設計図はいつまでたっても描かれなかった。文革が始まる一年前の一九六五年になっても、文革の構想など見当たらない。それどころか、一九六三年から始まる社会主義教育運動、別名、四清運動は一九六〇年代末まで続くと毛沢東を含めて指導者誰もがそう考えていた。だから、一九六六年春の文革の開始に向かって、皆知らず知らずのうちに近づいてゆくのだけれども、最後の瞬間まで、毛沢東を含め誰も自分たちが文化大革命なるものに足を踏み込むことになるとは考えていなかった。ところが、一九六五年秋に思いもかけない、いくつかの出来事が偶然にもほぼ同時に起こり――それは具体的には、皆さんもご存じの歴史劇『海瑞の免官』をめぐる騒ぎ、軍の総参謀長や中央弁公庁主任の解任事件などを指すのですが――その衝撃によって、ようやくそれまでに集められた材料が「結晶化」する、あるいは水が氷となるような「相転移」が生じる、そしてやっと文化大革命が姿を現すのです。このように、最後にやってきた要因に特別な地位を与えることによって、私は超個人的に働く力と偶然の果たす作用を組み合わせて理解しようとしました。 こうした方法論、あるいは叙述の仕方の意味するところは、文化大革命は決して毛沢東が、次第に左傾化を強96法学研究 98 巻 9 号(2025:9)めたことの必然として生じたのではなく、直前に至るまで、それを避ける道が残されていたということです。もっとも、これは、そうであってほしいという私の願望がすでに起きてしまった過去に投影された結果、採用してしまった方法であったかもしれません。 この物語は、資料的には、『中共重要歴史文献資料彙編』に大きく依存しています。この資料集には、『毛沢東思想万歳』のこれまで知られていなかった版を含めて、毛沢東の講話に関する新しい資料が含まれています。それらを使いました。それから、四清運動に関する膨大な資料も――とても全部は読めなかったのですが――使いました。だから、これは四清運動に関する研究にもなっています。 この資料は、本当にたくさんの研究の可能性に道を開いています。そのため、私はたぶんこの資料をずっと読み続けていくことになると思うのです。皆さんもご存じのクリフォード・ギアーツという文化人類学者が、どこかで書いていたことなのですが、数学者の発想力は一八歳でピークを迎え、二五歳になると枯渇してしまう。しかし、歴史学は五〇歳でも、まだ大きな問題に取り組むには若すぎる。老人ホームでも歴史学はできる、と( ( (。私は彼の言葉を信じることにします。また本が書けるかどうかはわかりませんが。 本日はご清聴ありがとうございました。〔付記〕 本稿は、筆者が慶應義塾大学を定年退職するに際して、二〇二五年三月二二日に行った最終講義の内容を、ほぼそのままの形で掲載したものである。このような機会を与えてくださった大学関係者各位に対して、あらためて感謝申し上げる。97中国共産党研究四十年(1) この講義後に、父親から事実誤認を指摘された。事実はといえば、松岡洋右の甥を柔道の技で締め落としたのは、祖父と一緒に酒を飲んでいた、さる有名な柔道家だったとのことである。(2) この資料集は、中央档案館と各省の档案館とが合同で編集したもので、一九八四年から八七年にかけて、それぞれ数百部ずつが内部発行された。現在の政治的条件のもとでは刊行できるようには思われない、このような資料集が当時刊行されたのは驚くべき出来事であったように思われる。それはおそらく、胡耀邦や趙紫陽という比較的リベラルな指導者たちの名と結びつけられる当時の特別な政治的条件のもとではじめて可能であったのだろう。ただし私は、各革命根拠地のうち中央根拠地に関する資料集だけは入手することができなかった。それを読むことができたのは、ようやく二〇一〇年代に入ってからのことであった。(3) 当時の党員たちの名誉のためにつけ加えておけば、資料からは、自らが掲げた革命の大義と矛盾するこのような資金集めの方法に深く苦悩する党員たちの姿もまた浮かび上がる。これでは自分たちは匪賊と違いがない、という自覚が少なくとも一部の党員たちにはみられる。そのような党員たちの内面の葛藤までも浮き彫りにするという点で、この資料集は価値あるものなのである。(4) ロベルト・ミヘルス著、広瀬英彦訳『政党政治の社会学』ダイヤモンド社、一九七五年、およびフランツ・ボルケナウ著、鈴木隆・佐野健治訳『世界共産党史』合同出版、一九六八年を参照されたい。(5) データの出所となった文献は、中共中央組織部信息管理中心編『中国共産党党内統計資料彙編 1921―2000』(表紙に「秘密」とあり)二〇〇二年二月(『中共重要歴史文献資料彙編』特輯之三十九、ロサンゼルス、中文出版物服務中心、二〇〇五年)。このほか、このプロジェクトにおいては、中共中央組織部編『全国県、処級以上党政領導幹部統計資料彙編 1954―1998』一九九八年八月(『中共重要歴史文献資料彙編』第三十輯第十八、十九分冊合訂本、二〇〇九年)、および中共北京市委組織部・北京市人事局編『北京市幹部、党員統計五十年 1949―1998』一九九九年九月(『中共重要歴史文献資料彙編』第三十輯第九十七分冊、二〇一二年)も重要な情報源となった。(6) 「中国における反革命粛清運動と『一九五七年体制』の起源」(上)(下)、『法学研究』第九〇巻第八号および九号(二〇一七年)。98法学研究 98 巻 9 号(2025:9)(7) この著作(『構想なき革命――毛沢東と文化大革命の起源』)は二〇二五年四月に慶應義塾大学法学研究会より同研究会叢書として刊行された。(8) この講義の際、私はうろ覚えで不正確にギアーツの言葉を引用したのだが、講義後の調査で引用元が判明した。彼は正確にはこう述べている。「数学はもちろん少なくとも一般的なイメージではひとつの極端な例で、一八歳で最盛期を迎え、二五歳で枯渇すると考えられている。歴史学はもう一方の極端な例で、五〇歳では大きな問題に取り組むにはまだ若すぎると考えられることがある。事実上、あらゆる成熟のサイクルが不協和音を奏でているのが即座にみてとれるプリンストンの高等研究所を訪れた人がある昼下がりのお茶の時間に数学者と歴史学者に、この頃研究はどうですかと尋ねたとしよう。「ええ、ごらんのとおり、まだ数学者の幼稚園でね」と近くの髭も生えていない若者に手を振りながら歴史学者は言い、「それに歴史学者の老人ホームでもある」と数学者は言うだろう。」クリフォード・ギアーツ著、梶原景昭ほか訳『ローカル・ノレッジ――解釈人類学論集』岩波書店、一九九九年、二七八頁。