187キャバレーの芸術性と風刺性早坂 若子(堤林研究会4 年)Ⅰ 問題の所在Ⅱ キャバレーの定義と歴史 1 キャバレーとは 2 パリ、モンマルトル 3 ベルリンとミュンヘン 4 キャバレーのカテゴライズと定義Ⅲ ウィーンキャバレーの変遷 1 キャバレー誕生前から『愛しのアウグスティン』 2 『常夜灯』から『蝙蝠』へ 3 『地獄』『ジンプリツィスムス』 4 第一次世界大戦の影響と1920年代 5 1930年代の政治キャバレーと第二次世界大戦への道Ⅳ ウィーンキャバレー3 つの特徴Ⅴ ウィーンキャバレー政治化の理由Ⅵ カール・クラウス 1 芸術家カール・クラウス 2 戯曲『人類最期の日々』 ( 1 )内 容 ( 2 )作品にみられるクラウスの思想 3 クラウスのキャバレー観 4 ウィーンキャバレーとクラウスⅦ キャバレーの芸術性と風刺性188 政治学研究57号(2017)Ⅰ 問題の所在芸術文化が花開いたウィーン世紀末。パリから伝わったキャバレーがウィーンに登場したのもその頃である。ウィーンにはすでに独自の風刺の文化が根付いていたにもかかわらず、ウィーンキャバレーの歴史(誕生からWW Ⅱまで)をみると、芸術性を重んじていたキャバレーが、1920年代にようやく風刺性を帯びてくることが分かる。他の都市に比べ政治化が遅れたウィーンキャバレーの特徴から、キャバレーの芸術性と風刺性に光を当てたい。キャバレーの先行研究はそれほど多くはない。特に邦訳されているものは数が限られている。そのなかでも、キャバレーの通史として、ハインツ・グロイルの『キャバレーの文化史』はとても重要な文献である。この本を題材に、さらにキャバレーを生き生きと書き上げたリサ・アピニャネジの『キャバレー』は、『キャバレーの文化史』ほどの情報量はないが、その分、キャバレーの各地での特徴や性格を社会背景と共に簡潔に説明している。通史のなかのとりわけ芸術的なキャバレーに焦点を当てた菊盛英夫の『芸術キャバレー』も参照させていただいた。残念ながら、ウィーンキャバレーに絞った文献があまりにも少ないため、今回はドイツ語の文献を数冊参照した。ウィーンキャバレーの通史であるヴァルター・ロースラ―の『ウィーンのキャバレー』(Gehn ma halt a bisserl unter…)1)は解説だけでなく、当時の新聞文芸欄、作品の台本がそのまま載せてあり、ウィーンキャバレーをより深く知ることができた。また、キャバレー『蝙蝠』を中心に、内装から経営まで事細かく記したバーズ・ミヒャエルらの『キャバレー 蝙蝠』(Fledermaus Kabarett, 1907 bis 1913 : einGesamtkunstwerk der Wiener Werkstätte : Literatur, Musik, Tanz, ÖsterreichischesTheatermuseum)2)も参考文献として挙げた。しかし、先行研究の数が少ないため、文献の間にいくつかの指摘されていない矛盾も発見した。そこでまずはウィーンキャバレーの通史を組立て直すことにした。その上で、ウィーンキャバレーの特徴を考察したい。また、多くの文献にキャバレー批評の人物としてカール・クラウスが取り上げられていたが、彼の劇作品『人類最期の日々』をキャバレーの比較対象として取り上げているものはなかった。そこでカール・クラウスの思想や社会批判、またその活動をもとに、キャバレー考察を試みる。その上で、最終的に、芸術と風刺の間で揺れ動くキャバレーの歴史から、キャバレーの芸術性、政治性に光を当てたい。189Ⅱ キャバレーの定義と歴史1 キャバレーとはキャバレーと聞き、我々日本人はどんな空間を想像するであろうか。女性がステージで踊る空間だろうか。それともお酒を飲みながら男たちが女性と戯れる空間であろうか。例えば、前者のイメージは、パリのキャバレーのレビューを基にした宝塚歌劇団から来るのかもしれない。また、後者でいえば、「キャバレー」と「クラブ」を組み合わせた造語、「キャバクラ」からイメージされるかもしれない。しかし、キャバレーの歴史において、そこに関わった、もしくは出入りした人物を挙げれば、キャバレーが必ずしも一口にレビューやナイトクラブと言えないことがわかる。ピカソ、サティー、ロートレック、シューンベルク、クリムトなどだ。説明、定義付けが困難であるのも無理はない。パリのモンマルトルで誕生したキャバレーは各地に伝播し、その土地で、時代によってその姿を変えていったのである。もともと“ キャバレー” はフランスの酒倉、居酒屋からその名を受けている。祭りの期間が終わった芸人たちを自分の酒場に呼び、客を呼び込むための見世物をさせたことが始まりである。これをリサ・アピニャネジは「原キャバレー」3)と呼ぶ。その「原キャバレー」は国、時代ごとに変化を遂げる。本論文ではウィーンキャバレーを中心に論じる都合上、まず初めにウィーンにキャバレーが伝播するまでの歴史を簡単に記す。2 パリ、モンマルトル19世紀後半、フランスでは酒場、街角、カフェなど至る所でシャンソンが歌われていた。シャンソンはエンターテイメントの主流だった。それはただ聞いて楽しむ恋愛詩ではなく、風刺を含めた新聞のような役割を果たす歌であった。内容としては、例えば以下のような、王侯貴族の権威などに反発する詩がある。さあ、この俺が本当のことをいってやる、王侯貴族は やっぱり資本主義者だ労働者は搾取されている190 政治学研究57号(2017)シャンソンが歌われるカフェ・コンセールが増えていた1881年、初めての芸術キャバレーが誕生した。『黒猫』である。当時のパリでは、第三共和国は平和と経済繁栄をうたう一方でスリ、貧困などの問題も広がっているという矛盾があった。そのため、自然主義崇拝に風刺を吹き込み、中産階級に対し彼らの社会対立の浅さを伝えるのがキャバレーの目的であった。キャバレー『黒猫』のあるモンマルトル市区だが、そこでキャバレーは発展していった。この地は貧民の町であり、世間に背を向け自由奔放に生きるボヘミアンの芸術家が溜まる場であった。今日でもレビューを上演している『ムーランルージュ』もこの地にある。『黒猫』では詩の朗読、シャンソンの上演、そして影絵の上演を行っていた。パリのキャバレーは風刺がシャンソンで歌われており、のちにダダイズムの運動とも重なり前衛的なものになっていくが、芸術性や政治性だけでなく、エロティシズムや娯楽性も求められていた。3 ベルリンとミュンヘンパリで誕生したキャバレーはベルリンに伝播する。当時のベルリンはウィルヘルム2 世が権力を振るっていた。彼は芸術に熱心だったため、逆に芸術活動の取り締まりが厳しかった。しかし、そんなベルリンでもキャバレー構想が実現した理由としては、ニーチェの反実利主義思想や反ブルジョア、反宮廷の思想が、若い芸術家を中心とした現状打破運動であるJugendstill と結びついたためだと言われる。モンマルトルでの生き生きとしたボヘミアンたちの噂は19世紀末にはす図1 現在の『ムーランルージュ』(筆者撮影)社会主義など死んだも同然だ。王侯連中だけじゃない貴族も お巡りも 軍隊の奴らも大邸宅にいる卑劣な金持ちもプロレタリアの汗を飲んでた奴らはどいつもこいつもお呼びじゃない。ついにみんなほっぽり出されりゃ後に残るはアナーキストだけ4)。191を秘めている」5)と知ったのだ。この『ドイツのシャンソン』は1 年で2 万部を売るという人気であった。これを出発点に、キャバレーの目指すところは、寄席、大衆向けのバラエティーショーを高尚なものにし芸術のレベルまで上げるというものになった。それから、貴族で詩人のエルンスト・フォン・ヴォルツォーゲンはキャバレー『超寄席』を開いた。小さい小さい薔薇の花束私は妻と踊る二人は薔薇の繁みを踊って回るチリリンチリリン輝く繁み孔雀みたいに踊り回る6)Jugendstill と結びついたと話したが、このように実際に上演された詩を見ると、そこに風刺性はない。歌の大半はエロティックな、たわいもないものであった7)。ヴォルツォーゲンは風刺性の欠如に対し、連日客席を満席にしなくてはならないこと、モンマルトルとの客層との違い、検閲の厳しさを挙げた8)。モンマルトルのアーティストたちのような社会的政治的反抗からくる怒りはなかった。そもそもヴォルツォーゲン自身、貴族出身であり、君主主義的思想の持主であった。その後、このキャバレーは、皮革商人とビール醸造業者に商売になると見込まれ、商業化の道を進む。『超寄席』の誕生から、ベルリンにはたくさんのキャバレーができた。その多くは入場料無料とし、クローク、少量の食事などに高いお金を出させるような商図2 『黒猫』で上演された影絵(筆者撮影、モンマルトル美術館)でにヨーロッパ中に広がっていた。ベルリンにはすでにバラエティーショーや寄席などキャバレーに近いものはあったが、低俗なものばかりであった。状況が変化するのは、1900年に詩人オットー・ユリウス・ビーアバウムが出版した『ドイツのシャンソン』である。フランスのシャンソンに刺激を受け、しかも「“ 芸術を大衆のものにする” 可能性192 政治学研究57号(2017)売をしていた9)。その中でも、ベルリンの暗黒街と上層社会の悪者との間に大きな差はないとする『銀のポンス鉢』は政治的であったし、『響きと煙』は劇をパロディー上演して宮廷文化を批判するなど風刺的であった。ミュンヘンはベルリンと比べると自由な空気が漂っていた。リサ・アピニャネジは、社会的な壁が取り払われ、皆でばか騒ぎし、すべてを笑い飛ばす、謝肉祭「ファッシング」に、キャバレーの先祖を見る10)。ミュンヘンの芸術家は芸術に対する警察の介入を擁護する「ハインツェ法」に悩んでいた。この法律の撲滅運動がキャバレー誕生の出発点である。芸術家たちが集まり、1901年、「芸術と科学の自由を守るためのゲーテ協会」を作った。そこには雑誌『ジンプリツィスムス』の編集長も加わっていた(この雑誌をもとに、1903年キャバレー『ジンプリツィスムス』が開店する)。謝肉祭での抗議運動を続けていくため、彼らはキャバレーを作ろうとした。それが『十一人の刑吏』である。法体系には法体系で挑む。彼らは、小さな劇場を借り、そこで社会の偽善を断罪したのだ。このキャバレーは1904年に経営難で閉店するが、メンバーによっては、別にキャバレーを作る者、ウィーンなどに拠点を移し活躍する者もいた。4 キャバレーのカテゴライズと定義これまでウィーンにキャバレーが伝わるまでの歴史を追ってきたが、主に3 つのキャバレーに分類される。政治キャバレー、芸術キャバレー、商業キャバレーの3 つである。本論文では、芸術と風刺について考察するため、芸術、政治キャバレーに注目することにしキャバレーを以下のように定義付けする。【キャバレーとは、芸術と風刺の共存する場】と。風刺の場であることは、定義付けはしていないものの、グロイルは『キャバレーの文化史』を風刺の歴史から始めている。また、リサ・アピニャネジのキャバレーの2 つの要素として「第一は、自分たちを故意にアヴァンギャルドとして宣伝したがる若い芸術家たちの実験室としてであり、第二の要素は同時代を風刺する舞台」11)となっている。『芸術キャバレー』においても、「その本質は諷刺である」12)と記している。芸術と風刺の間で揺れ動くキャバレーを、ウィーンという土地に今度は絞ってみていこう。193Ⅲ ウィーンキャバレーの変遷1 キャバレー誕生前から『愛しのアウグスティン』ウィーンのキャバレー誕生は1901年だが、ロースラーの『ウィーンのキャバレー』によると、ウィーンはもともと古い劇場文化を持っており、その中にキャバレーに通じる要素が見受けられるという。19世紀の劇様式は、バロック時代から発展してきた道化師が登場し、ウィーンなまりを話し、パロディー調であった。1829年、民族歌手団(Volkssänger)が誕生した。これはもともとその日暮らしのハープ奏者が始めたものだった。彼らの作品には風刺的なものが多かった。メッテルニヒのハプスブルクでは、検閲はとても厳しいものであり、1860年の憲法改正でプレスの自由が認められたものの、Volkssänger への検閲はやむことはなかった。1880年代後半はエンターテイメントが人気を集め、次第にVolkssängerは、商業化に走り、風刺的な題材から、人をより惹きつける感傷的な詩が並ぶ作品ばかり歌うようになる。パリでキャバレーが誕生して20年の月日が経ち、ようやくウィーンにも1901年11月6 日、キャバレーがウィーン劇場内に誕生する。その名も『愛しのアウグスティン劇場』。フェリックス・ザルテンによって創立された。このアウグスティンというのは17世紀のペスト流行期に人気を集めた歌手の名であり、ウィーンで知らない人はいない。この年の夏にはすでにベルリンの「超寄席」が客演に来ていた13)。さてこのキャバレーの評判はいかがなものだったのか。ロースラーは「失敗」14)と評価する。素人っぽさ、オリジナリティーの少なさといった具合に批評が並ぶ。確かにプログラムを見てみると、モンマルトルの『黒猫』から借用した影絵、ビーアバウムの歌詞による歌などが見られる。『芸術キャバレー』では「モンマルトル・キャバレーとベルリンの『ユーバーブレッテル』をまねて混ぜ合わせたもの」15)と説明されている。初めはベルリンで活躍していたヴェーデギントも雇われていたが、文学的、政治的要素のないキャバレーに合わず関係を断ち切った。かろうじてウィーンの人気歌手ハンシ・コーゼで持ちこたえていたが、7 回の公演で閉店してしまう。キャバレーといえるかは疑問だが、1889年には『ブダペスターオルフォイム』というグループが結成されている。彼らの多くはユダヤ人であったが、ウィーンの出身、ブダペストの出身者もいた。ユダヤのジョークで笑わせ、自己風刺を武194 政治学研究57号(2017)器とした。例えば、歌と踊りとスケッチのなかに、同じユダヤ人に痛めつけられつつも彼らなしには生きていけない男を表現した。彼らはカール・クラウスに絶賛されたが、詳しくは後で論じる。2 『常夜灯』から『蝙蝠』へ散々な評価を得た『愛しのアウグスティン』からウィーンのキャバレー文化を持ちこたえさせた男がいた。マーク・ヘンリーである。彼は、ミュンヘン『十一人の死刑執行人』出身であり、ウィーンで『常夜灯』を立ち上げた。ミュンヘンからボヘミアンを連れ、消えかけたウィーンキャバレーを救ったとも言える。肩書は芸術監督であったが、自ら司会をし、シャンソンも歌った。『ウィーン・アルゲマイネ新聞』の文芸欄を担当していたペーター・アルテンベルクは宣伝を務めた。アルテンベルクの記事によると、「ようやく古典キャバレーの最高潮誕生」16)とある。客にとって、最も魅力的だったのは、詩の朗読であった17)。『常夜灯』は芸術性を重んじていたと言える。アルテンベルクは「このキャバレーは芸術的で新たな時代の発展の整備、そしてそれを維持する機関である」「芸術性を失った常夜灯は徐々に委縮していくであろう」18)と言っている。ただ一方で、彼は芸術家が新しいプログラムを常に作り続ける負担を忠告している。その上で、芸術性だけでなく政治風刺の質が浅く、ユーモアがシンプルになると恐れを書いた。当時の作品はこのような雰囲気を持っている。台本作家フェーリクス・デルマンの作品で、オスカー・シュトラウスが曲をつけた。君は吸いつくばかりの接吻で荒れ狂う愛の激情でまずわたしの感覚を呼び醒まして欲しいあるいは血をもってさえも……19)『常夜灯』は上記の詩からもわかるように、当初挑発的な内容ではなかったが、それが変化していったのは、古き良きオーストリアをテーマにした物語の歌い手、ローダ・ローダの活躍であろう。アピニャネジがウィーンキャバレーの特徴という「優雅なユーモアと気ままさ」20)を体現した人物とも言えるであろう。彼は海軍に所属していたが、大将の批評を口にしたために、地位を失い、キャバレーで働くようになる。そのためか、彼は軍国主義を辛辣に批判する作品を書き、上演195禁止になるということもあった。しかしそれでも彼の大半の作品は政治的ではなく、「独特のユーモアの才」21)が劇作品などに見られる。以下に彼のテキストを引用する。私の一階下にロベルト・ローダー氏が住んでいる。ちなみに、私の名はローダ・ローダという。郵便配達人がアドレスを読み間違えて、一階にある私のポストを通り過ぎてしまうことが、ときどき起こる。それで、このロベルト・ローダーが私宛の手紙を開封し、弁解の言葉とともに私のところへ届けてよこすのが、いつものことである。彼は急いで封筒を引きちぎるらしいのだ。しかし、手紙の頭の数行に目を通すと、すぐこれが彼宛のものではなくて私宛だとわかり、そして謝罪の言葉……等々。さて昨日のこと、私は一計を案じた。仲のいい友人に頼んで私宛に手紙を書いてもらった、こういう書き出しで―「手前、低能、有害なワニめ、うすぼけの世界の王、白痴の国の大統領……」。私はこの手紙を開封してからローダー氏にこんなカードをつけて届けた―「不注意にも小生、開封してしまいました。が、冒頭の一行からも、この手紙が貴殿に宛てたものであることは明白です……等々」。ロベルト・ローダーは階段の下から私を呼び、これからは宛名に注意したいものだと言った22)。のちに論じるカール・クラウスは『常夜灯』の常連客であった。しかし、突然意見を変え、猛烈な批判を『灯火』にて発表する。それが原因で、マーク・ヘンリーとのけがにまでつながる喧嘩をすることにもなる。1907年マーク・ヘンリーは『蝙蝠』を開店。『蝙蝠』はウィーン工房23)のキャバレーとも言え、総合芸術を実践した。開店の際の記事には、「芸術キャバレーであり、居酒屋ではない」24)と書かれていた。また、パンフレットには、『蝙蝠』のマニュフェストが記されている。「ほかのナイトクラブと比べることはできない。芸術的な直観に立脚しており、ほぼ失われかけているそもそものキャバレーの思考を復活させる」25)とある。内装・衣装は「ウィーン応用芸術工房」が担当した。クリムトも参加、ココシュカはプログラムをデザインした。『常夜灯』との違いは、アルテンベルクをキーマンにしたことであろう。彼は反小市民的なボヘミアンに生まれる。『常夜灯』『蝙蝠』で詩人として活躍しただけでなく、「ヴァ196 政治学研究57号(2017)は『蝙蝠』の芸術監督を務めている。アルテンベルクの小咄の語りとしても定評があった。また、風刺家として優れており、愛国者、政治化、ジャーナリスト、あらゆるものを嘲笑した。マックスラインハルトの俳優として認められ、1905年にはクラウスの『灯火』に台本が紹介される。最期はナチ隊が家の門に押し入ったのを見て自殺した。アルフレッド・ポルガーは、キャバレー作品のパロディーを制作した。また、追悼文には「偉大なる素人」と記された。確かに彼は「人間の天性はアマチュアの中で発見される」「芸術教育を受けてない者だけが舞台に上がるべきと言っているのではない。そうみせるのがキャバレーである。素人のようにあたかもそこで生まれたように」26)と述べている。この2 人の連作で、『蝙蝠』で202回も上演された人気作品こそ「ゲーテ」である。ゲーテが現代に現れ、学生に代わって試験問題を解くという話で、ユーモアにあふれている一方で、風刺的でもある。しかし世紀末芸術が下火になるにつれ、このキャバレーも下火になる。それだけでなく、経営にも問題が生じた。キャバレーの持ち主であったフリッツ・ヴェンドルファーはお金とセンスを持ち合わせたジェントルマンであったが、経営が厳しくなり、レビューに変化させていく。「ただただウィーンが悪くなるなら芸術の発展状況に異論を唱えられない」27)と図3 現在のキャバレー『蝙蝠』(筆者撮影)リエテ評論家」として新聞の文芸欄も担当していた。文化を先導する文芸欄の評論家がキャバレーの詩を書いていたのだから、当時のキャバレーは芸術の最先端を行っていたことがわかる。逆に言えばキャバレーがうまく、芸術における世論を調整できる力も持っていたとも言える。『蝙蝠』のオープニングはアルテンベルクの詩の朗読であった。プログラムに風刺のアクセントを与えたのは2 人、エゴン・フリーデルとアルフレッド・ポルガーである。共に『常夜灯』『蝙蝠』で活躍した脚本家、芸人であった。フリーデルは1908年に197『芸術キャバレー』では2 つのキャバレーは商業的主義的色彩が強かったと説明され、「地獄は……風刺性をまったく欠いた非文学的なキャバレーだった」28)と書かかれているし、『キャバレーの文化史』では「ウィーンの〈ジンプリツィスムス〉は、本家ミュンヘンのそれとは違って、最初から商売に重点を置いた寄席劇場だった。」と記されている。しかしアピニャネジの『キャバレー』では、「安易に俗悪のほうを選んだ」29)世界大戦直前のキャバレーの中の例外として、『地獄』の名を上げている。『ウィーンのキャバレー』では、誕生当初のこれらのキャバレーを商業的と説明するものの、1920年代に初めて『地獄』の監督、司会、『ジンプリ』の監督にもなったグリューンバウムによって成果を出したと書かれている30)。彼の作品は、最初は政治的ではなかったが、彼がこれらのキャバレーで活躍するころには彼の台本は政治性を帯びてくる。ジンプリでの最後の作品である。台本の一部であるが、「私は見ない、絶対的に何も見ない、そうでないとナチの文化の中で迷子になってしまいます」31)とある。彼は『ブタペストオルフェールム』の仲間を『ジンプリ』に呼んでもいた。4 第一次世界大戦の影響と1920年代第一次世界大戦後、芸術キャバレーのアーティストらは、「オーストリアのあからさまな“ 反ユダヤ主義”」32)により、ベルリンなど国外に拠点を移している。また、公的な風刺の需要が減ったこと、好景気の影響もあり、芸術キャバレー政治キャバレーよりもアミューズメント寄りのキャバレーが流行るようになる。一方で、1920年代には、これまでのアーティストに代わり、政治家や党員などのアマチュアによる政治キャバレーが増えていく。例えば1926年、社会主義図4 現在の『ジンプリツィスムス』(筆者撮影)エゴン・フリーデルは嘆いている。3 『 地獄』『ジンプリツィスムス』1906年10月に誕生した『地獄』、また1912年に誕生しミュンヘンからやってきた『ジンプリツィスムス(以下『ジンプリ』)』はどちらも、資料によっては商業的であったと記されている場合もある。例えば198 政治学研究57号(2017)の中等学生のグループから生まれた『Politische Kabarett der SozialistischenVeranstaltungsgruppe』。彼らは反ナチズムを訴えた。またオーストリア共産党(KEÖ)のプロパガンダを目的にした『選挙キャバレー』も誕生する。反連立国家、労働者の政府を唱えた。キャバレーに参画したのは共産党だけでない。『政治キャバレー』は、ヴィクトール・グリューンバウムとルートヴィッヒ・ヴァーグナーが設立し、反オーストリアファシズムを主張、政治汚職やラディカルな政治を批判した。このキャバレー出身者でウィーンキャバレーの政治性を説明するうえで重要なのは、以下のような作品を書いた、ユーラ・ゾフィである。飢えとパンに満ちたこの大地生と死に満ちたこの大地貧困も富もかぎりがない大地は祝福に満ち また呪いに満ちている明るい美の炎に包まれたこの大地その未来は壮麗にして偉大だ!33)彼について、富山典彦「ユーラ・ゾイファーと死の帝都ウィーン―ウィーンのカバレティスト列伝[ 2 ]」を参考に、当時の社会状況と共にここで触れておく。グロイルは彼のことを「オーストリアのもっとも重要な政治カバレット作家、ユーラ・ゾイフィ」34)と記している。ウクライナに生まれ、ロシア革命から逃げるため、1921年ウィーンにやってきた。彼はキャバレーが誕生した時代、いわゆる世紀末ウィーンを知らない人物として、特殊である。ロシア革命から逃れたものの、非合法のコミュニストの政党のキャバレーの台本を書き捕まってもいる。社会民主党からKPÖ に転換した。釈放されスイスに逃げるものの国境で捕まり、1939年に強制収容所で病死する。彼がウィーンに逃れた当時は、インフレの真っ只中であったが、福祉政策が実行され、ひとまず安定した。しかし、失業率は1922年には5 %であったが、33年には557,000人で、労働可能な人口の26%であった35)。このような時期である1935年、彼は初めて『カバレットABC』のための台本を書いた。先ほど福祉政策の実行と書いたが、実質には失業者がいるように、矛盾があった。1927年、2 人の労働者を故意に殺人した者が無罪になった。そこ事件をうけ、カール・クラウスは警察総監に対する退任を要求する張り紙を広告199塔にはった。しかしこの総監は義務を果たしただけにすぎないという声明を発表。クラウスは義務観念の犯罪的倒錯をテーマにした「ショーバーの歌」を書いた。この年にゾフィは社会主義的な生徒のグループに入った。この事件で分かることは、労働者をはじめとする下級層を大切にしているという政策の欺瞞である。ハプスブルグが追放され、貴族制度は取り払われたと思われていたが、それは形だけであり、この事件には、失業率も増え、社会の不満も不安も増えるという、当時の共和国の危機そのものが現れていた。一方でそのような問題に、ウィーンのキャバレーはほとんど関与しなかったという。「時事的な関心はもっぱら『生きのよい娘と昔ながらのジョーク』による流行のレビューに顔をのぞかせていた」36)。5 1930年代の政治キャバレーと第二次世界大戦への道1931年、ウィーン初のキャバレーと同名の『愛しのアウグスティン』はシュテラ・カドモンによって設立された。アンサンブル自らクロークや照明などの仕事を担った。このキャバレーは、アクチュアルなテーマでインプロするのが特徴であった。しかし、必ずしも直接に政治的ではなかった。例えばドレフュスが住人に砲兵隊を送った時でさえ、「愛」というプログラムを上演していた。カドモンは「政府は反ナチで攻撃的である……私たちは馬鹿な話をわざとする……これが私たちの反抗である」37)と述べている。このキャバレーの一部の若者が開設したキャバレーに『棘いちご』がある。創立者はルドルフ・シュピッツらで、後述する『ナッシュマルクト文学』と比較し、アクチュアルで攻撃的、またインプロが特徴的であった。ナチを会社に見立てた風刺劇は、シュピッツによってこのキャバレーで書かれた。『ナッシュマルクト文学』は「ウィーンカバレットのブルク劇場」38)と呼ばれるほどの地位を確立していた。このキャバレーの強みは初めから拠点があったことだ。カフェ『ドーブナー』である。特徴を例えば『愛しのアウグスティン』と比較すると、芸術性では、シーンの台本が優先で、安っぽいジョークはなく、偶然性にまかせるインプロもなかった。政治的に見れば十分なリベラルであり、親オーストリアであり、反独裁を主張した。このキャバレーは、ドイツ軍侵入、併合によって閉店に追い込まれる。メンバーの中には亡命した者、アウシュビッツで亡くなった者もいた。ここで4 つほど作品を紹介したい。1 つ目は1938年に書かれた「1913年」。第一次世界大戦前最後の平和の年、いかに災難に無知だった200 政治学研究57号(2017)のか風刺した。また検閲対策をしている点で面白いのは、NASI というインフルエンザの流行の話で、NAZI を思い起こさせるものである。2 つ目はタイムマシーンに乗って失業した少年がタイムトラベルする。発明家に出会いながらも、結局よい未来は機械でなく人がつくると学んで現在に帰っていくというユーラ・ゾフィの作品。最後は「ウィーン人の没落」。これは、『ナッシュマルクト文学』最後の演目である。ドナウ河のノアことテオフィル・ノア・シュピンナーグルは方舟を建造する。それによって最もウィーンらしさを具えた数人のウィーン人を助けて大洪水の時代を生き延びさせようという物語だ。選ばれるのは、給仕、小売商、サッカー選手、メーデル小娘、配管工などであった。皮肉にも実際ドイツ軍の侵入、併合でこのキャバレーは最期を迎えてしまう。『カバレットABC』は1934年、ユーラの協力もあって設立した。演出美術はシュタインベックが担当した。『ナッシュマルクト文学』より劇的ということであったが、このキャバレーには、『ナッシュマルクト文学』の役者などが出演していた。このことから、当時のキャバレーに差があまりなかったことが分かる。例えば1936年、ユーラは「世界滅亡」をこのキャバレーのために書いた。世界滅亡を阻止できる機械を発明した博士は人々にその効力を訴えても聞き入れない。ぶち当たるのは官僚制、そっけなさ、ばかばかしさなどで、反ナチズムを表現している。Ⅳ ウィーンキャバレー3 つの特徴これまで、ウィーンキャバレーの誕生から1930年代までの歴史を見てきた。時代を軸に捉えることでウィーンキャバレーの3 つの特徴が見えてきた。1 つ目、2 つ目はともにウィーン人の特徴ともいえるが、よそ者は排除されやすく、ウィーンならではのものが人気を得るということ、芸術性を重んじる風潮が強いということが挙げられる。そして3 つ目はキャバレーは資本主義やメディアを中心とした外的要因に影響されやすいということである。1 つずつその特徴について論じる。ウィーンにはキャバレー誕生前からコメディー、道化、風刺を中心にした劇文化があったと述べた。また、方言も好まれる文化があった。キャバレーがその要素を持っていたために、1930年代そして現代までウィーンにはキャバレーが生き続けていると言える。例えば、最初のキャバレー、『愛しのアウグスティン』はウィーンキャバレー構想も空しく、不評に終わった。当時の新聞批評を見る限り、201モンマルトルから借用した影絵芝居など、そこにはオリジナリティーがなかった。『常夜灯』も初めはフランスキャバレーの名残で、フランス語の詩が多く上映されて、内容も挑発的ではなかった。人気を維持できたのは、ローダ・ローダのウィーン風の作品あってのことだった。キャバレー『蝙蝠』も、ウィーン独自の芸術団体であるウィーン工房なしには語れない。ウィーンにキャバレーが誕生した頃、いわゆる「世紀末ウィーン」と言われる時代であった。「世紀末ウィーン」とは、19世紀末に史上まれに見る文化の成熟をみせたオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンおよびそこで多分野にわたって展開された文化の総称である。例えば心理学の分野ではフロイト、劇作家のホフマンスタール、音楽ではシェーンベルクなどが世紀末を代表する人物である。これまでの(父親世代の)芸術様式に対する若者世代の反抗と称される時代であった。先ほど触れたウィーン工房の活動もこの時期に誕生し盛んになったが、彼らのモットーはこれまで芸術品にしか求められなかった芸術性を日用品に取り込むことであった。『蝙蝠』において彼らはキャバレーという場を使い、舞台装飾だけでなく、店内の家具、そしてコースターまで芸術品で満たしたのである。当時のウィーンにおける芸術活動や思想をみると、その時代にキャバレーが誕生したのも納得できる。また、『常夜灯』『蝙蝠』など、開店の際の記事、さらにマニフェストを見ると、キャバレーにおいていかに芸術性が重視されるかがわかる。一方で、キャバレーの衰退の歴史に目を向けると、芸術に重きを置く文化より、キャバレーの資本との関わり、プレスとの関わりの大きさが目立つ。例えばキャバレー『蝙蝠』は、芸術家ではなく、フリッツ・ヴェンドルファーをはじめとするブルジョアに経営を任せていたが、経営不振に陥りレビューになった。客席のキャパシティーが広く、娯楽要素の強いレビューは集客に向いていた。芸術家が出入りするから、芸術に重きを置いているからといって必ずしも芸術性が保たれるわけではない。資本が土台にあるキャバレーは経済状況に影響されやすく商業化してしまう。『常夜灯』も同様に商業化の方向に向かった39)。プレスとの関わりだが、『蝙蝠』では、アルテンベルクが詩を書いていたことは、すでに記した。『蝙蝠」でポルガーは地方新聞を味方につけたと述べている。開店の際、もちろんアルテンベルクは評論家として、このキャバレーを大きく褒め称えていた。ここで当時のメディア、特に新聞の状況について説明をする40)。ハプスブルク帝国で、自由主義政党は言論・表現の自由を広げることに成功した。1860年代には、『プレッセ』『外国報知』『東方ドイツポスト』『ノイエ・フライエ・202 政治学研究57号(2017)プレッセ』の主要新聞が登場し、ウィーン以外にも広く読まれていた。この4 社は穏健自由主義であり、この新聞を中心にウィーンの言語を通じた公共圏がウィーンには広がっていた。しかし「プレッセ」の創立者の言う通り、世論を売る新聞は、利益追求は必要不可欠であった。検閲の中でも発行部数を上げるため、どうしても君主の支えが必要であった。よって現状批判の要素は弱まり、挑発的な記事は書かれなくなる。唯一の社会批判の場は文芸欄であった。現状をオブラートに包み、芸術作品を通して社会批判をした。しかし、資本や君主制、貴族性に影響されている新聞において、アルテンブルクがキャバレーについての記事をたくさん書いた文芸欄が、本当の意味で社会風刺の場になれたのだろうか。キャバレーがそのようなプレスと歩み寄ることに違和感を感じてしまう。むしろキャバレーがメディアの傘下に入っているかのようである。Ⅴ ウィーンキャバレー政治化の理由ウィーンは1930年代にようやく政治化する。その理由を以上の歴史と特徴から考えてみたい。理由として、2 つ考えられる。1 つ目はナチが台頭したドイツからの亡命者がキャバレーを盛り上げていたからである。2 つ目はそれに付随して、キャバレーが政治風刺の場として、形式的、性質的にも適していたことである。形式的で言えば、大きい国立劇場が政府の圧力下に置かれ、また資金も乏しいためにプログラムが制限された一方、キャバレーはいまだに「事態が“ 真実を通じて” 記録に留められるような、公の場所たりえていた」41)ことが言える。また当時の劇場法は50席未満の劇場には適応しなかったため、49席以下のキャバレーが増えた。性質的には、キャバレーの即興性ゆえに、あらゆる事態に対して即座に批評することも可能であり、アマチュアも参加することのできる融通性があり、この時代に生き残る特徴をキャバレーは持っていたのだ。Ⅵ カール・クラウス1 芸術家カール・クラウスウィーンキャバレーの歴史から、その特徴を探ってきた。また、キャバレーの定義を芸術と風刺の共存する場と述べた。ウィーンのキャバレーの歴史の中で、芸術性と風刺性が両立したのはようやく1930年代になってからと言える。しかし、203すでに第一次世界大戦前からウィーンに正真正銘のキャバレストといえる人物がいた。カール・クラウスである。オーストリアの政治思想家として彼を認識している人も多いだろう。しかし彼の肩書を一言でいうのは難しい。批評家であり、脚本家であり、ある意味で俳優でもあった。彼自身は「芸術家」を自称していた。大学時代に始めた朗読会は、「カール・クラウスの文芸劇場」として、生涯で700回公演された。彼は幼い頃から、ブルク劇場の俳優に魅了されるなど、舞台芸術に対する関心が強かった。彼は芸術、とりわけ舞台芸術の魅力について、彼が自ら出版していた雑誌『灯火』で以下のように述べている。 時代の価値は文学や芸術によって判断されるものではない。また個々の創造的な人物ともかかわらない。彼らはむしろ混乱をもたらす使者というものだろう。文化のあかしというべきものは一般の人々のひそかな判別力であって、高度な受容力がなくてはならない。この点、劇場こそ文化を計るもっとも精妙な目盛りである42)。ここから、クラウスの考える舞台の魅力が読み取れるだけでなく、彼が受け手の判別力を重んじているともいえる。このような思想を持っていたカール・クラウスの劇作品『人類最期の日々』、キャバレー観、芸術観から、キャバレーの芸術性と風刺性を見ていきたい。2 戯曲『人類最期の日々』( 1 ) 内 容『人類最期の日々』は1915年から17年にかけて書かれた。エピローグや修正を加え、1921年に決定版として出版された。この戯曲は並外れた長さである。はしがきには、こう記してあるほどだ。 当ドラマの上演は、地上の時とき間の尺度では10日余を必要とする。だからむしろ火星の劇こや場にふさわしい。この世の劇場通には堪え得ない代物だ43)。この風刺劇は第一次世界大戦前のウィーンから始まり、戦争の拡大によりオーストリア=ハンガリー帝国が誕生し、そしてドイツ、フランス、イタリア、東欧に広がり、最期は宇宙的な騒乱と神の声で終結する。時代のスケールも大きいが、204 政治学研究57号(2017)そこに出てくる人々の幅も異常に広い。皇帝はもちろん、官僚、闇商人、娼婦、遊び人、記者など当時のウィーンに存在する人物をこれまでかというほど集めた。原書の人物一覧は50頁にわたるのである。しかも、これらの人物のほとんどが実在した人物であり、彼らの台詞は実際に彼らの口から発せられた言葉である。クラウスは、カフェや病院、電車の中、新聞記事などあらゆるところから言葉を集めた。はしがきにはこのように記されてある。ここに報告されている異常な行為はすべて現実の写しである。ここに記されている異常な会話はことごとく現実の控えである。作者はただ引用を唯一の方法とした44)。この戯曲は皇太子暗殺の号外を配るシーンから始まる。劇中、何度も号外のシーンが出てくる。社会状況の変化、人々の様子の描写を見ていこう。まずは幕開きのシーンである。ウィーン。リング通りの一角、シルクエッケ。ある夏の祝祭日の夕。さんざめく人の波。また、所々方々に立ちどまって群をなす人々。新聞売り1 号外だあ―! 皇太子が暗や殺られたあ! 下手人は捕まった!通行人 (妻に)やれありがたい、ユダヤ人でないようだ。その妻 戻りましょうったら。(夫を引っぱって、去る)新聞売り2 号外―!『ノイエ・フライエ・プレッセ』だ! サライェボの大事件、犯人はセルビア人だ!第一幕第一場。ウィーン。リング通りの一角。シルクエッケ。数週間後のこと。家々に国旗が立ち、行進する兵士達に歓呼の声。興奮の色。所々方々に人々の群。新聞売り1 号外だ!―新聞売り2 号外! 戦況第二報告!野次馬 (《プリンツ・オイゲン賛歌》を歌っていたグループから離れ、真赤な顔、しゃがれ声で絶え間なく叫ぶ)セルビアめ、くたばれ! くたばれセル公! 205くたばれい! 万歳ハプスブルク! 万歳だ! セルビア万歳!知識人 (間違いに気づき、男を肱でつついて)君、あなた、こんがらがってますよ―野次馬 (トボッとし、考えてから)セルビアをやっつけろ! やっつけろ! 万歳だ、万歳だ! やっつけろい、ハプスブルク! セル公を!二幕。予想以上に長引く戦争で東欧から難民が殺到。人口が200万人を超えた。ウィーン。リング通りの一角。シルクエッケ。群衆はおおむねポーランドからの逃亡者、闇商人、休暇中の職業軍人、病院勤務その他軽労働従事の祖国組、および徴兵免除をとりつけた壮健な市民たちからなる。ポーランドからのユダヤ人:号ごうげえ外―お買けえどく得―さ、皆の衆―高利貸 こんな連中を救ってやるとはな、馬鹿なこった―そこらじゅう、ユダヤ野郎ばかりだね! 住みついているこちらの商いにもぐり込んでくる!第三幕。ほぼ3 年目に当たる。ウィーン。リング通りの一角。シルクエッケ。うす汚れた年寄りたちの往来。あちこちに人の群。新聞売り1 号外! ヴェニス総攻撃! イタリア軍完敗だぁ!軍部御用商人1 夕刊に載っとりますぞ、お疑いは御無用御無用。軍部御用商人2 しかし確かな筋から出たものでしょうかな?新聞売り2 号外―! イタリア軍、戦死者10万人だ―!軍部御用商人1 いや、もうたしかなことまちがいなし、一日よりマリーエンバートでクラーマーの客演ありと大見出しでね。新聞売り3 クラエファッツ攻略!軍部御用商人2 ありがたいや、これでわが奥方の永逗留もまちがいなしだ。軍部御用商人1 お目付役のお留守ってわけ?続く第四幕、第五幕の号外のシーンの冒頭部分はそれぞれ以下の通りである。206 政治学研究57号(2017)ウィーン。リング通りの一角。シルクエッケ。妖怪死霊さながらの異形の人の一団、互いに腕と腕を絡み合わせ、五列縦隊になって登場……新聞売り1 号外―! イタリア軍潰滅状態!新聞売り2 号外―! ウィルソン大統領、アメリカ親書発表!夜。シルクエッケ。湿っぽく冷えわたり、一面に霧が立ちこめている。負傷者と死者の人垣が立ち、その間より群衆化した山羊の凝然たる視線がさし覗く。新聞売りの声 夕刊!『アハト・ウーア・アーベントブラット』!以上、号外のシーンを紹介したが、戦争の状況の変化だけでなく、様々な立場にとっての戦争に対する価値観を浮き彫りにし、戦争の社会的影響を描写している。また、この号外のシーンには状況をただ描写するだけでなく、風刺の技が使われている。例えば号外を渡すシーンだが、《Blutige Abweisung in Naahkaamfbittee—!》というセリフがある。これを日本語に直訳すると「流血の肉弾戦、みごと撃退、どうぞ―!」となる。この最後の「どうぞ」だが、原文には「どうぞ」を示す「bitte」の前にコンマがない。コンマがあれば、この号外を「どうぞ」という意味になるが、コンマがないことによって、あたかも流血の肉弾戦を売り出しているようなニュアンスになる。恐怖に満ちた争いは、新聞社としては商品であり、それを売り物にしているということを、この何気ない台詞で風刺しているのである。この戯曲にクラウス本人も「不平家」として登場し、「楽天家」を相手に会話をする。楽天家 あなたのドラマも些細なことの集積なんでしょうが。ほんの些細な現象と大きな事実とを結合させる、あなた一流の始末の悪い癖ですよ。不平家 私はただ、ほんの些細な事実から壮大な現象にわれわれを導いていく、悪魔一流の手法を踏襲したにすぎませんよ。クラウスは多くの芸術作品を引用し、パロディーを試みている。例えばゲーテの「旅びとの夜の歌」である。なべての峯に憩いあり、なべての梢にそよとの風も吹かず静けさあり207夕鳥の歌、木立にやみぬ待てよかし、いざやがて汝なれも憩わん以下がパロディー「旅びとの戦の歌」である。なべての梢に憩いありなべての峯に風音もなくヒンデンブルクは森に眠り待て、しばしワルシャワの没落、いや近し劇が進むにつれ、人間は益々邪悪になっていく。最後のシーンは、人間の世界を表す地の声と天の声の対話の果てに、天が地を攻撃し、人類は滅亡する。「全軍刻々強化の一途、待つはただ上天気と参謀本部の指令書にある通り」などと声を上げる地に対し、天も反論する。そして静寂のあとに、ついに天の声が最後の台詞を発する。天の声 攻撃が大成功、夜は狂乱に過ぎた 神の写し絵、人間は破滅した!(深い沈黙)神の声 余の望むところではなかったクラウスはこのように、風刺を使い、劇を書き上げた。第一次世界大戦中にリアルタイムに言葉を集め書かれたこの大作は、風刺性と政治性を持っているのではないか。( 2 ) 作品にみられるクラウスの思想この作品には、クラウスの思想がよく表されている。メディア批判、テクノロマン主義、装飾論について論じる。クラウスはメディア、とりわけ『ノイエ・フライエ・プレッセ』を批判してい208 政治学研究57号(2017)た。彼はこの新聞の文芸欄の担当への勧誘を断っている。彼の批判の対象は正確に言うと、事実を捻じ曲げる情報の送信者だけではない。それを鵜呑みする受信者、そしてその裏に隠れる資本主義の存在であった。クラウスは自ら新たな媒体を作り上げた。『灯火』である。創刊号にはこんな言葉遊びを含んだ一文が載っている。「当誌が何をもたらすかは二の次である。何を殺す(ウムブリンゲン)かが問題だ」。タイトルを並べてみると、次の通りである。ガス会社の怠慢についてオーストリアの刑法と囚人の扱いについて図書館の利用法について新聞記者が招待された宴席での食物と飲物の量について、並びにそれに関する報道の仕方について帝国議会議員の演説における語法の貧弱さについて多岐にわたる内容である。彼はその話題性に関わらず、常に社会的弱者に光を当てた。「皇帝のおことば」という記事では、皇帝、資本主義の闇、メディアの関係を洗い出した。博覧会では皇帝が商品の説明を受けた後に、お言葉を与えるのが習わしであったが、新聞社はそこに目をつけ、皇帝の言葉を着色することで出品会社からお金を受け取っていた。クラウスはすかさずそれを記事にした。「あなたのところの冷蔵庫はとてもスマートで使いよいようですね」(400クローネ)「今ぞ世界に光が満ちる よい電気を工夫しましたね」(500クローネ)彼はメディア批判、裏に隠れた資本主義の闇をこのように表現した。クラウスは広告やわいろなどにまみれたジャーナリズムに反対していたため、『灯火』は購読料でのみ読者と結ばれていた。一体『灯火』の情報源はどこだったのか。それは、『灯火』の読者である。官僚、知識人らは表では『ノイエ・フライエ・プレッセ』を読んでいたが、陰では『灯火』を読み、時には匿名で内部告発をしていたのである。彼はテクノロマン主義を批判していた。ロマンが表すのは、旧き帝国の支配下でメディアを通じ中世の遊戯のように宣伝される戦争。テクノとは、近代テクノ209ロジーを利用した毒ガスのような戦争を指す。すなわち、テクノロジー兵器に支えられて資本家の利害のため帝国主義戦争を「英雄」「名誉」といった中世騎士道の概念で装飾し、宣伝することをクラウスは批判したいのである。テクノロマン主義は①で述べたメディア批判が根底にある。資本主義と結びついたメディアも戦争の力になっているのだ。総力戦はハプスブルグが諸民族の自立性を何より尊重しなくてはならないとしているはずであったのに、装飾によって正当化されることを批判した。クラウスの芸術に対する思想を、ロースの装飾論擁護から見ていくことにする。アドルフ・ロースは代表作『装飾と犯罪』のなかで、装飾を好むウィーン市民に対し、それはオーストリアの後退だと主張した。装飾したいという欲求は衝動の露出であり、芸術は他方でその衝動の昇華の意味があり、芸術と装飾に境界を設けないウィーンの思想を批判している。具体的には日常品の芸術化に反対し、建築物から装飾を取り払おうとし建設した「眉毛のない家」は挑発的にも宮殿の真向かいに建てられ、大きな論争を生んだ。そのロースの装飾論をクラウスが擁護したのも無理はない。彼は言葉の装飾と戦っていたからだ。メディアが飾り立て捻じ曲げる言葉とである。彼はこの言葉の装飾が定着し、真実に置き換わってしまうことに危機感を持っていた。ただし、装飾をオーストリアの後退と考えていたロースとは違い、クラウスは装飾は確かに西洋の進歩の表れとしつつ、むしろ西洋の進歩を批判する形をとった。彼はイデオロギー言語を装飾と同一視し、問題視した。3 クラウスのキャバレー観それではクラウスはキャバレーについてどのように述べているのか。彼は『常夜灯』の常連であった。しかし、突然『灯火』において『常夜灯』を批判し始める。一方で、『ブダペスト』を次のように高く評価している。 現在ウィーンの劇場で、真の芝居の醍醐味を少しでも堪能させてくれるところは―無比のジラルディただ一人は別として―一つもない。どうにか楽しませてくれるのは、〈ブダペスト娯楽場〉のアイゼンバッハやロットといったコメディアンたちだけだ……こうした類のものが、日刊新聞の文芸欄の告知に載るようなことでもあれば、それは文化史上の大事件だ45)。210 政治学研究57号(2017)また、「ラインハルトが一ダース束になってもその演出の評判を否定することはできない」46)とも述べている。この差は何なのであろうか。『常夜灯』は芸術性を重んじて開店された。またクラウスは、『常夜灯』の作品も手掛けているし、『常夜灯』を宣伝していたアルテンベルクを褒め称える歌を作っている47)。歴史に目を向けると、しかしながら、この『常夜灯』は商業化への道をたどる。ウィーンキャバレーの特徴で述べたが、この『常夜灯』はアルテンベルクを通して新聞とつながっていた。アルテンベルクに対して好意的であったクラウスだが、彼なりの信念を貫くため、平気で立場を変えた。芸術性をうたっているにもかかわらず、のちに商業化してしまうこの『常夜灯』の芯の弱さを、すでに見抜いていたのかもしれない。またこのキャバレーの挑発性にかける部分も気に入らなかったのかもしれない。一方『ブダペスト』はクラウスが身を入れたくなるような、一貫性を持っていた。1894年から1914年まで『ブダペスト』の俳優、演出家として活躍した、ハインリッヒ・アイゼンバッハが亡くなった時、彼への追悼文でフェリックス・ザルテンは次のように述べている。この人物は、15世紀後にはまだ慣れることはなかった、屈辱のなかで生きているということを市民に知らしめた。彼のような人物には、ゲットーの惨劇を乗り越える、決して破壊したり撓めることのできない生命力が備わっている。(…)苦の感情は皮肉的なジョークに移り変わり、絶望は覆り、千年の痛みは夜の笑いになる48)彼らの多くはユダヤ人であった。常に弱いものに光を当ててきたクラウスが、ユダヤ人の演劇グループに目を向けることは不思議なことではない。また、このグループは1889年から1919年まで一貫して活動を続けてきた。『常夜灯』は当初はフランス語での上演が多く、また創始者のヘンリーが連れてきたボヘミアンの多くはミュンヘンからであった。一方、『ブダペスト』は生粋のウィーン発祥の劇団であった。団員のほとんどはユダヤ人であったが、ブダペスト出身、ウィーン出身の者もいた。その点でも、多くの人種を包括するウィーンらしいグループであった。クラウスの目には、当初は本格的キャバレー誕生に期待したものの、芸術に固執し、しかも最終的にレビューへの道へ進んだ中途半端さに我慢ができなくなったのではないだろうか。『プダペスト』のような、皮肉たっぷりに自己批判、211社会批判をし、悲しみを笑いに変える集団の方が、心動かされたのかもしれない。4 ウィーンキャバレーとクラウスキャバレーを風刺と芸術の共存する場としたら、特に『常夜灯』『蝙蝠』などをはじめとする、初期のウィーンキャバレーにおいて、キャバレーと呼べる場が少なかったのではないかと考えられる。第一次世界大戦前ですら、気ままなウィーン風のレビューが流行ったのである。一方でクラウスはすでに第一次世界大戦前に『人類最期の日々』を書き始めていた。この作品には芸術性と風刺性があると考えられる。そこで、ウィーンキャバレーをクラウスの視点から、批判的に考察していきたい。キャバレーの政治化が遅れたが、そこには芸術の本来の役割が長年達成されなかったのではないかと推測する。クラウスは前述の通り、アドルフ・ロースの装飾論を擁護した。ウィーンキャバレーは新聞によってキャバレーの評判を飾り、芸術性の高さを売りに、時事問題に目を向けなかった。装飾とは対等にあるべき芸術は装飾の道具になっているように思われる。また、プレスとの関わり、資本主義の中で生きるブルジョアとの関わりは、キャバレーで本来重要視されるべき芸術を享受する側をなおざりにしたのではないか。クラウスはメディア批判の際も、発信者だけでなく受け手の責任も追及し批判した。また、舞台芸術についてのコメントにおいても、一般の人々の判断力こそ文化のあかしとした。彼にとって、観客は重要な役割を果たすのである。彼は『人類最期の日々』を通し、様々な人が歴史を作り発信するだけでなく、受信する様を、事実そのままに戯曲化した。ウィーンのキャバレーは、芸術性を重んじるあまり、送信側に意識を置き過ぎたのではないか。そこに受信者の社会をみる目を養う試みはあったのであろうか。舞台芸術の一部であり、しかも観客との距離が近いキャバレーでこそ、本来人々の芸術性を高められたのではないか。クラウスは、作品全体を通して、当時のウィーンを風刺した。そこにあったのは、事実を装飾しない芸術性、資本主義やメディアに左右されない芸術性、受信側を意識した芸術性である。芸術性があるからこそ、彼の風刺は真実を捉え、今でも人々に呼びかける力を持っているのだ。212 政治学研究57号(2017)Ⅶ キャバレーの芸術性と風刺性ウィーンキャバレーの歴史、そしてクラウスの作品と思想からキャバレーを考察してきた。キャバレーは、芸術と風刺の共存する場と定義付けたが、クラウスはその共存を実現したといえよう。また、風刺に芸術性が重要な役割を果たすということも証明した。事実を装飾しない芸術性、資本主義やメディアに左右されない芸術性、受信側を意識した芸術性があってこそ、風刺が成立した。芸術は、そう考えると、ベルリンのキャバレー創立の意図とは逆の意味を見出すことになる。ベルリンでは芸術を大衆化するためのキャバレーであった。しかし、クラウスが行ってきた、「朗読会」、『灯火』の発行、そして『人類最期の日々』では、むしろ大衆化を避け、メディアや資本の入る隙を作らず、受け手一人ひとりとの関係を作り上げていた。再びクラウスの言葉を引用する。 時代の価値は文学や芸術によって判断されるものではない。また個々の創造的な人物ともかかわらない。彼らはむしろ混乱をもたらす使者というものだろう。文化のあかしというべきものは一般の人々のひそかな判別力であって、高度な受容力がなくてはならない。この点、劇場こそ文化を計るもっとも精妙な目盛りである49)。芸術は風刺の道具ではなく、芸術と風刺が共存するからこそ人々の心に直接届く。そして、そのような場であるキャバレーは、文化を計る目盛りになるだけでなく、文化のあかしを育てられる場として価値があるのではないか。1 ) 邦題は筆者訳。以下『ウィーンのキャバレー』と表記する。2 ) 邦題は筆者訳。以下『キャバレー 蝙蝠』と表記する。3 ) リサ・アピニャネジ『キャバレー ヨーロッパ世紀末の飲酒文化 上』菊谷匡祐訳、サントリー博物館文庫、1988年、17頁。4 ) 同上、18頁。5 ) 同上、75頁。6 ) 同上、80頁。7 ) 菊盛英夫『芸術キャバレー』論創社、1984年、111頁。8 ) 同上、110頁。2139 ) 同上、118頁。10) アピニャネジ、前掲書、1988年、86頁。11) 同上、22頁。12) 菊盛、前掲書、1984年、4 頁。13) ハインツ・グロイル『キャバレーの文化史Ⅰ 道化・諷刺・シャンソン』平井正・田辺秀樹訳、ありな書房、1988年、179頁。14) Walter Rösler, Gehn ma halt a bisserl unter Kabarett in Wien von den Anfängen bisheute, Henschel Verlag Berlin, 1993, p.63.15) 菊盛、前掲書、1984年、306頁。16) Buhrs Michael, et al., Fledermaus Kabarett, 1907 bis 1913: ein Gesamtkunstwerk derWiener Werkstätte: Literatur, Musik, Tanz, Österreichisches Theatermuseum, 2007,p.40(筆者訳).17) Ibid., p.40.18) Ibid., p.40(筆者訳).19) グロイル、前掲書、1988年、181頁。20) アピニャネジ、前掲書、1988年、119頁。21) 同上、117頁。22) 同上、118頁。23) 1903年、ウィーン分離派の工芸品製作所として設立され、建築・工芸をはじめ、様々な分野で作品を制作販売した(同上、106頁)。24) Michael, op.cit., p.89(筆者訳).25) Ibid., p.90(筆者訳).26) Rösler, op.cit., p.66(筆者訳).27) Ibid., p.68(筆者訳).28) 菊盛、前掲書、1984年、311頁。29) アピニャネジ、前掲書、1988年、119頁。30) Rösler, op.cit., p.70(筆者訳).31) Walter Fritz, Im Kino erlebe ich die Welt… Kino und Film in Österreich 1896-1996,Brandstätter, Christian, 2000(筆者訳).32) アピニャネジ、前掲書、1988年、314頁。33) ハインツ・グロイル『キャバレーの文化史Ⅱ ファシズム・戦後・現代』平井正・田辺秀樹訳、ありな書房、1988年、30頁。34) 同上、22頁。35) 富山典彦「ユーラ・ゾイファーと死の帝都ウィーン─ウィーンのカバレティスト列伝[ 2 ]」『成城文藝』180号、2002年、99頁。36) ハインツ・グロイル『キャバレーの文化史Ⅰ 道化・諷刺・シャンソン』平井正・田辺秀樹訳、ありな書房、1988年、316頁。37) Rösler, op.cit., p.160(筆者訳).38) ウィーンが誇る地位の高い伝統的な劇場。214 政治学研究57号(2017)39) Ibid., p.116.40)『ノイエ・フライエ・プレッセ』について、田口晃『ウィーン 都市の近代』岩波新書、2008年、参照。41) リサ・アピニャネジ『キャバレー ヨーロッパ世紀末の飲酒文化 下』菊谷匡祐訳、サントリー博物館文庫、1988年、144頁。42) 池内紀『カール・クラウス』講談社学術文庫、2015年、26頁。43) 同上、86頁。44) 同上、87頁。45) ハインツ・グロイル『キャバレーの文化史Ⅰ 道化・諷刺・シャンソン』平井正・田辺秀樹訳、ありな書房、1988年、187頁。46) 菊盛、前掲書、1984年、313頁。47) リサ・アピニャネジ『キャバレー ヨーロッパ世紀末の飲酒文化 上』菊谷匡祐訳、サントリー博物館文庫、1988年、109頁。48) Rösler, op.cit., p.31(筆者訳).49) 池内紀『カール・クラウス』講談社学術文庫、2015年、26頁。引用・参考文献一覧池内紀『カール・クラウス』講談社学術文庫、2015年。菊盛英夫『芸術キャバレー』論創社、1984年。高橋義彦『カール・クラウスと危機のオーストリア―世紀末・世界大戦・ファシズム』慶應義塾大学出版会、2016年。田口晃『ウィーン 都市の近代』岩波新書、2008年。富山典彦「ユーラ・ゾイファーと死の帝都ウィーン―ウィーンのカバレティスト列伝[ 2 ]」『成城文藝』180号、2002年。ハインツ・グロイル『キャバレーの文化史Ⅰ 道化・諷刺・シャンソン』平井正・田辺秀樹訳、ありな書房、1988年。ハインツ・グロイル『キャバレーの文化史Ⅱ ファシズム・戦後・現代』平井正・田辺秀樹訳、ありな書房、1988年。リサ・アピニャネジ『キャバレー ヨーロッパ世紀末の飲酒文化 上』菊谷匡祐訳、サントリー博物館文庫、1988年。リサ・アピニャネジ『キャバレー ヨーロッパ世紀末の飲酒文化 下』菊谷匡祐訳、サントリー博物館文庫、1988年。Rösler, Walter, Gehn ma halt a bisserl unter Kabarett in Wien von den Anfängen bis heute,Henschel Verlag Berlin, 1993.Michael, Buhrs, et al., Fledermaus Kabarett, 1907 bis 1913 : ein Gesamtkunstwerk derWiener Werkstätte : Literatur, Musik, Tanz, Österreichisches Theatermuseum, 2007.McNally, Joanne; Peter, Sprengel; Hundert Jahre Kabarett: zur Inszenierunggesellschaftlicher Identität zwischen Protest und Propaganda, Königshausen &Neumann, 2003.215Walter, Fritz, Im Kino erlebe ich die Welt… Kino und Film in Österreich 1896-1996,Brandstätter, Christian, 2000.