../243ブリティッシュ・ファシズムへの服従―変容するイギリス社会におけるモーズリーとニコルソン―山本みずき(細谷研究会4 年)序 章Ⅰ 新党の結成 1  生い立ち 2  保守党からの離党 3  労働党での挫折 4  ファシストへの転身Ⅱ ブリティッシュ・ファシズム 1  ニコルソンとの交友 2  ファシズムの背後に潜む社会的要因 3  ブリティッシュ・ファシズムとはⅢ モーズリーとニコルソンの離別 1  BUF の瓦解 2  モーズリーの二面性 3  指導者の苦悩終 章序 章2005年にBBC がヒストリー・マガジン上で発表したものに「英国史上、最悪の10人(‘Worst’ historical Britons list)」というリストがある。これは時代を100年単位で区切り、歴史家たちが各時代における悪人を1 人ずつ選りすぐったリストで、1800-1900年には「切り裂きジャック」との異名を持つ猟奇殺人事件の犯人が選244 政治学研究57号(2017)出されている。彼は、鋭利な刃物で被害者の喉を搔き切り、臓器を摘出するなど凶行を繰り返した異常犯罪者である。続いて二度の大戦が勃発した1900-2000年、所謂「20世紀」の極悪人に選ばれたのが、これから本稿で描こうとするオズワルド・モーズリー(Sir Oswald Ernald Mosley, 1896~1980)という人物だ。日本ではあまり馴染みのない人物であるが、このモーズリーは1980年に世を去って以来、今なお英国のラジオやテレビで特集を組まれるほど英国史に強烈なインパクトを与えた政治家であった。第一次世界大戦が終結した1918年、22歳の若さで当時最年少の議員に選出されたモーズリーは、留まれば栄達は確実だった保守党を離れ1)、自由党系無所属の時期を経て労働党へと転身する。まるでウィンストン・チャーチル(Sir WinstonLeonard Spencer-Churchill, 1874~1965)の若かりし頃を想起させるような鮮やかな転身であるが、同時に、政治家としてのモーズリーは一貫してあるものを追いかけていた2)。それは「英国経済を復興させる」という壮大な夢である。そして彼は、その際立った才能と行動力から保守党と労働党、いずれの側からも早くから将来を嘱望された人物であった。保守党では出世を約束され3)、労働党では1929年に成立した第二次マクドナルド内閣においてランカスター公領相の地位が与えられ、ラムゼイ・マクドナルド首相(James Ramsay MacDonald, 1866~1937)に至っては自分の後継者として考えていたほどモーズリーは各方面から期待を集めていた4)。1920年代にはこれほど期待されたモーズリーであったが、1930年代以降、第二次世界大戦を経て英国民のモーズリーへの態度は一変する。経済不況が引き起こした失業者の問題に真正面から向き合い、巧みな弁舌と洗練された立居振舞によって会う人すべてを魅了してきた政治家が、20世紀の極悪人と称される所以は一体何であろうか。それは、モーズリーが英国における稀有なファシズム運動の指導者として歴史にその名を刻んだことによる。「モーズリーの新ニューパーティ党は、現代英国史における最も奇妙な出来事として記憶されている」。こう評するのはモーズリーの伝記の著者としても高名なロバート・スキデルスキー(Robert Skidelsky, 1939~)である5)。1930年、モーズリーは経済政策をめぐって党内で対立を深め、失業政策を理由に閣僚を辞任し、労働党を離れて自ら政党を立ち上げるという異例の道を進む。その党こそが先に引用したスキデルスキーの言葉にもある「新ニューパーティ党(the New Party)」であり、英国にファシズムの風を巻き起こした「イギリス・ファシスト連合(British Union of Fascists)」の245前身であった。英国を絶体絶命の危機に陥らせたナチス・ドイツとアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889~1945)を想起させるファシズムという思想を蛇だ蝎かつのごとく嫌厭する英国人にとって、自国のファシズム史が奇妙に映るのは当然であろう。しかしさらに奇妙なことに、当時の英国にはファシズムを嫌悪していながらモーズリーの運動に惹き込まれた英国人がいた。その人物が、本稿におけるもう一人の主要人物ハロルド・ニコルソン(Sir Harold George Nicolson, 1886~1968)である。本研究は反ファシズム思想を有していたニコルソンが新党の活動に加担した要因に加えて、新党の指導者を務めたモーズリーが、社会状況の変化によりファシズムの活動が下火になった後もそのファシズム思想を先鋭化させた原因を探ろうとするものである。なお、見市雅俊の指摘する通り、日本で最初の本格的なモーズリー論として、戸塚秀夫「世界恐慌とイギリス・ファシズム」東京大学社会科学研究所編『ファシズム期の国家と社会 7 運動と抵抗(中)』東京大学出版会、(1975年)があるが、同年に英国で出版されたスキデルスキーの画期的なモーズリー伝を参照できなかったため、当時の最新の知見を盛り込むことができていない。また、自己弁護的な記述がしばしば見られることを差し引いたとしても、モーズリーによる自叙伝もまた重要な史料になることは明らかだが、それも取り上げられていない。その点では、見市雅俊「サー・オズワルド・モズリーとイギリス・ファシズムの生成」(『西洋史学』第177号、1980年)は同時代のモーズリー論を援用してバランスをとろうとする試みがみてとれ、すぐれた論考である。また、スキデルスキーのモーズリー伝に対しては、モーズリーの失墜した名声の快復を目論んだ伝記だとする批判があることは否めないため6)、できる限り他のモーズリー論も参照するように努めたい。筆者自身が調査したバーミンガム大学図書館に所蔵されているモーズリーとスキデルスキーのあいだで交わされた書簡7)は2040年1 月1 日まで非公開にされているが、1975年にモーズリー自身が綴った「ロバート・スキデルスキーの伝記の批評」(日付不明)8)は公開されており、スキデルスキーのモーズリー伝に対するモーズリーの評価を知ることができる。モーズリーは批評の中で親戚から寄せられた感想を引用して、「この伝記は決してモーズリーの崇拝者によって書かれたわけではない」ために「モーズリーにとっては我慢ならない描写もある」ことを仄めかしているが、自らの言葉によってスキデルスキーを批判することを慎重に避けており、「私には公平な伝記に思える」と肯定的に締めくくっ246 政治学研究57号(2017)た。これまで日本におけるモーズリー研究は等閑に付されてきた感があるが、1975年に戸塚秀夫がモーズリー研究を発表して以来、1998年に中村幹雄が「イギリス・ファシスティの登場と挫折―保守主義とファシズムとの関係によせて」(『奈良法学会雑誌』、1998年)を発表するまで、モーズリーに言及した研究はほかに4本存在する。高橋直樹の「一九三一年のイギリス挙国一致内閣」(『国家学会雑誌』第91巻、3 ・4 号、1978年)は、労働党内閣について失業問題を中心に分析してきたスキデルスキーの方法は誤りであったと指摘している点で、先行のモーズリー研究に異なる見解を呈するものであったが、その2 年後に見市雅俊が「サー・オズワルド・モーズリーとイギリス・ファシズムの生成(下)」のなかで高橋の主張に批判を加えている9)。続いて発表されたのは佐藤恭三「モーズレイと英国ファシスト同盟」(『政治経済史学』180号、1981年)であり、この研究はモーズリー論というよりモーズリーが指揮をとったイギリス・ファシスト連合の歴史を明らかにする試みであった。最後に紹介する桾沢栄一の「イギリスのファシズム運動とその思想―1930年代のモーズリー卿の政治思想を中心に」(『埼玉女子短期大学研究紀要』第8 巻、1997年)は、英国におけるファシズム運動の歴史を中心に、イギリスにおいてファシズムが成功しなかった原因を分析しているため、モーズリー論とは言い難いが、英国のファシズム運動が英国史にもたらした影響を知るうえでは秀逸である。これまでの研究はファシスト期のモーズリーの思想や運動、あるいは政治史の文脈でモーズリーが英国に与えた影響について明らかにしてきた。ただし、これら先行研究はモーズリーがファシズム思想を先鋭化させた原因をいまだ明らかにできていない。見市の研究は労働党期のモーズリーに焦点をしぼり、彼がファシズムに転向した諸要因を組織の観点から詳らかに描いているが、イギリス・ファシズムの思想が一人の人間のなかでどのように芽生えたかについては研究の目的とされていない。本稿ではバーミンガム大学図書館が所蔵しているモーズリーのメモや自叙伝、ニコルソンの日記や書簡集など一次史料を使用しつつ、伝記や先行研究なども手掛かりにして、モーズリーがファシストに転身した原因分析を試みたい。構成は以下である。Ⅰでは、現代の英国人にはあまり馴染みのない労働党の大臣時代のモーズリーを描く。このときモーズリーが掲げた経済政策はのちにファシズム運動を率いた247ときにも引き継がれているため、彼の経済政策がどのような環境の中で提案されたかを知ることは、その特徴を探るうえでも不可欠な描写になると思われる。モーズリーの経済政策は労働党で受け入れられず、彼は直後に大臣辞任劇を披露する。それから労働党を離れて新党を結成し、徐々にファシズムに近づいていく姿にも触れたい。Ⅱは、ニコルソンとモーズリーの交友から始まり、モーズリーがファシストであることを表明し、その姿に幻滅するニコルソンの姿を描いている。この頃のニコルソンは妻への手紙や日記の中に自身の悲観的な心情を綴っている。それらの史料を用いながら、ファシズムを嫌厭していたニコルソンを結果的にファシズム運動に惹きつけた、当時のイギリス社会に内在する諸要因を明らかにしたい。ニコルソンが生きた時代においてファシズムを危険視することの難しさが隠れているように思われるし、さらにここからブリティッシュ・ファシズムの特徴が浮かび上がるのではないだろうか。Ⅲでは、ニコルソンとモーズリーの離別とイギリス・ファシズム連合の衰退を描き、それまでの検討を整理したうえで、本稿の問いであった「モーズリーが思想を先鋭化させた要因」を明らかにする。それは、モーズリーの個人的な性格に加えて、1930年以前から存在する英国社会の思想や、世界恐慌以後の社会状況が関係していると思われる。これらの歴史的背景を基礎に据えて、これからモーズリーが生きた時代を見ていきたい。Ⅰ 新党の結成1  生い立ちオズワルド・モーズリーは、1896年11月16日に、ロンドンの中心部で準男爵家の家庭に生まれた。スタッフォードシャーの大地主の家系の母キャサリン・マウドと、第5 代准男爵の父オズワルド・モーズリーの長男として、モーズリーは生まれながらに上流階級の出自を授かった。この頃の英国社会では1880年代以降、貴族階級の没落と労働者階級の台頭という巨大な社会的階層の変容がみられ、階級社会は大きな変動に迫られていた。1873年にはじまる世界規模の大不況や工業化の影響を受けて土地貴族が地位と富を失いつつある複雑な時代のなかで、モーズリー家もまた名声を失い、その地位を脅かされていた10)。それでもモーズリー248 政治学研究57号(2017)は、時代に翻弄されながらも貴族的な立居振る舞いを生活のなかで自然と身につけ、これがのちに多くの政治家を虜にした武器となる。労働党時代にランカスター公領相の地位を与えた党首マクドナルドも、もし自分が良家に生まれついたなら「そうなってみたい」と思うような人物がモーズリーであったし11)、ハロルド・ニコルソンもまた、モーズリーの洗練されたマナーに惹きつけられた人物の一人であった12)。他方で幼少期にまつわる彼の記憶は悲惨なものだった。キリスト教の教えを大切にする優しい母の姿とは対照的に、モーズリーの父は極度の放蕩者だった。人を罵ってばかりで、モーズリー家の主治医によれば彼は不摂生のために肝硬変を煩い44歳の若さで他界している。幼いモーズリーは酒癖の悪い父親にいじめられ、母マウドは息子を守るためにモーズリーが5 歳のときに別居生活をはじめた。以後モーズリーは暴力的な父に怯えることなく母と祖父から深い愛情を受けて育てられた。しかし、それはやや歪んだ愛情だった。二人は幼いモーズリーを過度に理想化したために、モーズリーは母のために夫の代わりを、祖父の前では放蕩息子に代わって真面目な孫をそれぞれ演じたのだった。同時に甘やかされて育ったモーズリーは、政治の道を歩むなかで横柄で幼稚な一面を何度も露呈することになるのだが、このように母と祖父の期待に応えようと幼少期に子供らしく振る舞えなかったことも少なからず影響しているのだろう。8 歳になったモーズリーはウェスト・ダウンのプレパラトリー・スクールに送られた。英国最古のパブリックスクールといわれるウィンチェスター校を16歳で卒業後、かつてチャーチルも学んだサンドハースト王立陸軍士官学校に1914年に入学する。第一次世界大戦が勃発した年と重なって、入学したてのモーズリーは直ちに戦場に送られた。空軍に志願して訓練をうけたのち、その年のクリスマス頃にはオブザーバーとして敵の戦線上空を飛行するまでになり、はやくも翌年に彼は操縦士の資格を手にしていた。悲劇が襲ったのはその時だった。モーズリーは不運にも操縦していた飛行機を墜落させ右膝を負傷し、不具を負ってしまう。幾度かの手術によって命は救われたものの、不慮の事故のために彼はデスクワークしかできない、障害者としての劣等感を植え付けられた13)。かつてフェンシングの名士として大会で優勝したほどの腕前を持つモーズリーは二度とスポーツを楽しむこともできなかった14)。愛する家族に操縦士の免状を自慢しようと心を踊らせていた18歳のモーズリーには耐え難い経験だったろう。彼は送還されて、1918年の終戦までロンドンの地で過ごした。終戦の知らせを受けたときのことは249次のように回想している。 「私はお祭り気分に浸っている通りを駆け抜け、どんちゃん騒ぎの声が聞こえてくる、ロンドンでもっとも広くて洒落たホテルにはいった。目つきからして未熟で、戦争で戦ったことも苦しんだこともないような人々は自己満足に浸り、同胞の死を前に酒を飲み、笑っていた。その瞬間、長いあいだ蓄積した疲労と苦しみ、悲しみの感情が押し寄せてきた。私は記憶に痛めつけられて、錯乱状態の群衆を静かに一人で傍観していた。そのときだった。私の中である目的意識が芽生えた。二度と戦争をしてはならない、と。そして私は政治の世界を目指すことを決意した。」15)結果的に戦場での経験が彼に1 つの使命感を与えることになった。ともに戦った同胞のために「英雄たちにふさわしい祖国を再建すること」(a land fit forheroes)をスローガンに掲げて16)、1918年にモーズリーは保守党の公認候補としてハローから出馬し勝利をおさめる。22歳の最年少議員の誕生であった。2  保守党からの離党その鋭い弁舌によってたちまち頭角をあらわしたモーズリーは、意見の対立のためすぐに保守党を去ることになる。1920年6 月にアイルランドの反乱を武力で鎮圧した保守党の方針に賛同できなかったのだ。モーズリーは、他人と意見が食い違うと所属政党をも即座に切り捨て新たな居場所へ移ってしまうような傾向がみられる。のちに自身の主張が拒絶されて労働党員からファシストに転向したことも考えれば、彼は自らの信念を達成するために特定の手段や組織に拘らないプラグマティックな考えの持ち主だったのだろう。裏を返せば、彼はある目標に向かって果敢に挑戦をつづける理想主義者でもあった。モーズリーの腹心W. E. D. アレンの巧みな表現を借りれば、モーズリーは「ある確固とした理想のあくなき追求」の結果、所属政党を次々に変えて表面的に無定形な態度を露呈したに過ぎないのかもしれない17)。モーズリーも自身の主義主張の一貫性に辟易しているほど、このときから彼の政治姿勢は貫かれていた18)。保守党を離党したあと、モーズリーは1922年と23年の2 回の選挙で保守党と自由党のいずれの誘いも蹴って無所属のまま選挙にのぞみ、保守党の対立候補を破って当選した。総選挙の結果、保守党に代わって労働党が政権をとり第一次マ250 政治学研究57号(2017)クドナルド内閣が成立すると、モーズリーは労働党への入党を検討し始め、組閣後の1924年に正式に入党するに至った。3  労働党での挫折労働党に入党してから5 年の歳月が経ち、1929年には第二次マクドナルド内閣が組織され、モーズリーはランカスター公領相として閣僚入りを果たす。労働党に転向してわずか5 年での異例の出世に、モーズリーが首相の座に到達するのも時間の問題のように思われた19)。しかし現実にはわずか1 年後に労働党とも離別することになる。それは時代の変化に苦しんだモーズリーの人生を決定づける、象徴的な出来事だった。モーズリーが閣僚入りした頃の英国はウォール街での株価暴落に端を発する世界恐慌のあおりをうけて、深刻な経済不況に見舞われていた。失業者は275万人を数え、実に有権者の1 割が失業していた計算になる20)。失業問題は必然的に内閣にとって最大の課題となり、モーズリーはランカスター公領相を兼ねつつ経済対策担当のセクションでも仕事を与えられた21)。そこで彼は失業率を軽減するために独自の経済復興政策を政府に提案するのだが、労働党の反応は冷たいものだった。非実用的だとして即座に却下したのである。モーズリーは貴族的な魅力によってマクドナルドのように名誉を好むものを惹きつけると同時に、階級の低い労働党員たちの妬ねたみ種ぐさとなっていた。大臣にまで上り詰めたことはかえって彼らの憎しみを増幅させ、実際には労働党内でのモーズリーの立場は水面下で揺らいでいたのである。一方でモーズリーは、こうした経済的な大惨事を前にしても、有効な手立てを講じない労働党の無関心な態度に不満を募らせていた22)。現状維持に凝り固まった同僚たちに対する軽蔑の念は強まるばかりであったし23)、何よりも自らの意志が受け入れられないことは我慢ならなかった。景気回復案が拒絶されると、いよいよ労働党との関係をこじらせることになる。その年の3 月には閣僚を辞して労働党とも距離を置くようになった。ある日、労働党の特別会議の席でモーズリーは辛辣な言葉で労働党を批判した24)。するとたちまち労働党員たちからの反発が相次ぎ、労働党に対する「重大な忠誠違反(グロス・ディスロイヤリティー)」のかどで執行委員会から党籍を剝奪されてしまった25)。またしてもモーズリーは既存の政党組織になじむことができなかった。こ251のことはモーズリーの原動力にかえって火をつける。ファシズムの世界も目前に迫っていた。4  ファシストへの転身モーズリーが掲げた経済政策については後に詳しく触れるが、簡潔に述べると、それは積極的な政府支出を主張するケインジアンの発想に基づいたものだった。1931年1 月、モーズリーはウィリアム・モリス(William Richard Morris, 1877~1963)から5 万ポンドの資金援助を得て、ついに彼は「新党」を結成した。この党こそが英国にファシズムの風を巻き起こす「イギリス・ファシスト連合」の前身組織である。興味深いことに、当時はモーズリーの型破りな経済復興政策に共鳴し新党結成に賛同する知的水準の高い若者が一定数いた26)。作家のオスバー・シトウェル(Osbert Sitwell, 1892~1969)も当初は新党の一員であったし、哲学者のC. E. M.ジョード(Cyril Edwin Mitchinson Joad, 1891~1953)は新党で宣伝局長を任されていた27)。あの有名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes,1883~1946)もモーズリーの提唱した経済政策を評価していたのである28)。そして、そこには英国の優れた外交官として名を馳せたハロルド・ジョージ・ニコルソンの姿もあった。語学に堪能で、文学的素養が高く、外交評論家としても文才を発揮した人物である。彼もまた、モーズリーが首相になることを信じて疑わず、自由党からの出馬を取りやめてモーズリーに近づいていった29)。モーズリーから政党を立ち上げる計画を聞いたとき、ニコルソンは日記の中でこのように書き残していた。「モーズリーの巧みな会話はテューダー・ウォルターズ(Tudor Walters, 1898~1933)からの出馬の誘いを断るのに充分な説得力がある」30)。ウォルターズは自由党所属の政治家でニコルソンに出馬を勧めていた人物である。失業率が23.1%という危機感の募る状況にあって、洋々たる未来を約束されていたはずの若者たちが、結果として1930年代の英国にファシズム運動の礎を築いていくのであった。Ⅱ ブリティッシュ・ファシズム1  ニコルソンとの交友第一次世界大戦時の戦場での活動の後に、モーズリーは外務省でニコルソンと252 政治学研究57号(2017)ともに勤務している31)。文筆家を志して1929年に外交官という安定した職業を離れたニコルソンは、この頃、困難に満ちたジャーナリズムの世界を彷徨っていた32)。彼は『イブニング・スタンダード』と『デイリー・エクスプレス』という、2 つのあまり品のよくない大衆向けの新聞にコラムニストとして寄稿する生活を送っていた33)。自らの品格を貶めているジャーナリズムの世界に満足できなくなったニコルソンは、徐々に政治の世界に興味をそそられ冒険心を膨らませていく。「私は自分自身が力強さと若さを夢見ていることに気が付きました」34)。これはニコルソンがモーズリーの新しい党の設立計画に関心が向き始めた頃に日記の中で語ったことである。モーズリーの新党はまさに若さに基づいた活動的な政党を目指しており、国家を再建するためにエネルギーに溢れた青年を動員することをモットーにしていた35)。モーズリーの事業はニコルソンがこの頃抱いていた願望に見事に合致したのである。モーズリーが労働党内で孤軍奮闘する姿をみていたニコルソンは、およそ労働党員たちの対応とは対照的に、モーズリーに好感を抱いていた。時折、彼はモーズリーの妻シンシアが所有するカントリー・ハウスに滞在し、モーズリーの独創性に富んだ経済政策の訴えに耳を傾け、イギリス経済をあるべき姿に立て直してくれそうな大胆な復興計画に期待を膨らませつつあった。モーズリーの労働党離党からわずか1 ヶ月後。1931年3 月1 日に新党の設立が公式に発表されると、ニコルソンは党の機関紙『アクション』の編集長として始動する。2  ファシズムの背後に潜む社会的要因しかしながら、ニコルソンは早々にこの新党を去ることになる。もともとファシズムに懐疑的だったニコルソンは、新党への入党前にもファシズムに異を唱える文章を『イヴニング・スタンダード』という新聞に投稿しており36)、入党後まもなく、新党の暴力的傾向を察知した彼は、妻に宛てた手紙や日記を通じて不快感を吐露している37)。最終的にニコルソンはモーズリーがベニート・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini, 1883~1945)との会談を実現させ、新党が正式なファシズム組織として「イギリス・ファシスト連合」へと改名する直前に離党を決意したのだった38)。ニコルソンはこの頃、次のように語っていた。「私は、彼に対する愛着を感じて以来、トム(モーズリーの愛称)に対して忠実であった。しかし、彼の考えが253私のそれから離れてしまったと実感した。彼には、政治的な判断ができない。彼はファシズムを信じている。しかし私は違う。私はそれを嫌悪しているのだ」39)。とはいえファシズムを嫌悪したニコルソンが、反ユダヤ主義的な思想や人種主義的な思想とまったく無関係だったかといえば、必ずしもそうではない。彼は反ユダヤ主義を嫌っていたが、それ以上にユダヤ人のことを嫌っていたし40)、黒人に対する人種差別的な言動も幼少期から散見される41)。それでも、ナチス同様に黒色の制服を着て、反ユダヤ主義的な言動を繰り返すモーズリーの姿にニコルソンは幻滅してしまった。ニコルソンはあくまでもモーズリーの経済政策に賛同していたに過ぎなかったのである。それにもかかわらずニコルソンがモーズリーの活動に携わったのは、経済不況という時代性が政党の暴力的傾向を覆い隠し、彼の判断力を鈍らせたからであろう。この一連の流れは、時代のつくり出す社会状況が人間の行動に影響を与えた結果だと考えられる。ニコルソンをはじめ英国のエリートたちは経済状況が改善されるにつれてモーズリーと距離を置き、モーズリーの言動は過激で無学なものだと嘲笑してきたが、一つ見方を変えるとモーズリーの言動は決して荒唐無稽なものではなく、もしかすると当時の英国社会に蔓延っていた人々の不満を体現したに過ぎないのかもしれない。イギリスで最もファシズム運動が盛んであった1930年代初頭は、失業者が急増したことによって、資本主義への憎悪と移民から職業を奪われているという疑懼の念とが人々のあいだに満ちていた。そうした時代にあってユダヤ人はスケープゴートのように排除や抑圧の標的にされ、徐々に反ユダヤ主義は社会に根を下ろした。実際にイギリス・ファシスト連合の運動が活発だった地域は、反ユダヤ主義とアングロサクソン至上主義の思想が根強いイースト・エンド・オブ・ロンドン(the East End of London)だった42)。加えて、当時は経済不況を受けて英国の「自由放任」という伝統的な経済思想に対する見直しの必要性が広く認知され、それと同時に、急速に広がっていく共産主義思想への危機感も人々のあいだで共有されていた。ファシズムはこれらすべてに対抗可能な思想としての魅力を秘めていた。「共産主義の台頭が急速に進んでいるとはいえ、果たしてファシズムで太刀打ちできるのか?」43)。複雑な時代の中でどのような道を選択することが正しいのか、ニコルソンは頭を抱えていた。すなわち、この時代の英国においてファシズムは必ずしもまだ道徳的な悪とい254 政治学研究57号(2017)う評価が確立していたわけではなく、英国人エリートの間で一定の魅力が共有されていたことを理解することが重要ではないか。但しそれはあくまでも思想のレベルに留まっており、モーズリーが運動を過激化させるほど仲間はモーズリーから離れていき、人々はファシズムを敬遠するようになった。3  ブリティッシュ・ファシズムとはそもそもブリティッシュ・ファシズムとはどのような性質を有するものなのか。英国におけるファシズムの歴史は第一次世界大戦前まで遡ることが可能であり、戦中・戦後を通して国家主義的な組織と人種差別的な集団がいくつか存在していた。しかしいずれも英国社会に影響を与えるほど発信力のあるものではなかった。その点ではモーズリーの政治運動が英国至上最も盛り上がりをみせたファシズム運動であった44)。ブリティッシュ・ファシズムのバイブルともいうべき『より偉大なブリテン』(1932年)45)を通じて、モーズリーはファシズム思想について明快に論じている。その著作の冒頭で、モーズリーは英国内でファシズム思想が偏見の目を向けられていることを認めて説得を試みる。「この国ではファシズムが完全に誤解されている。我々にとってその偏見を避けることは容易である。単にファシズムという語を使わなければいいだけだからだ。しかしそれは誠実ではない」46)。彼に言わせれば、英国人の考える保守主義が他国の保守主義とは意味合いを異にするように、英国のファシズムも他国のものとは異なる。そこでファシズムという思想を英国に定着させるために、すでにその国に根づいている政治哲学などを組み合わせて徐々に独自のファシズム思想を形作っていく必要性を説いている。「我々は、英国独自の手法でこの国に進歩的な運動を起こしたい」47)。そして自らの国民運動の方針を集約して「英国第一(Britain First)」48)との標語を掲げ、ファシズムが独裁政治であることを否定しながら、他方で議会体制が衰退していく現状を前に政府を強権化することの有効性を訴えている。その具体的な政策について、新党の会報誌『ニューパーティ・ブロードキャスト』の初刊49)では、議会制度の改革、輸入規制を掲げている。後者は経済政策の一貫であるが、さらに失業者対策についてモーズリーが打ち出した構想は、公共事業の振興による失業者救済、外国貿易の国家統制、保護関税の導入、年金の引き上げなど、国家権力の強力な介入によって不景気と失業者問題を克服するものであった50)。加えて銀行の国有化を通じて現行経済体制に国家が積極的に介入255することを主張している51)。モーズリーのファシズム運動における重要な点は、おそらくモーズリーの経済政策と社会政策とで支持者の性質が大きく分断されていたことにある。ニコルソンをはじめモーズリーのファシズム運動に携わった知識人層はこの急進的な経済政策に同意を示しながらも、モーズリーの考える社会政策には批判的だった。モーズリーは、新党の青年運動を、物理的暴力が行使できるような強力な集団に編成することを目論んでおり、社会状況によってはこれらの青年を兵力として用いることまで検討していた。新党内で左派に位置づけられるストレイチーやヤングは当然このモーズリーの構想には批判的な見解を示し、これを契機に新党を去ることになる。1 年後にはイタリア国家ファシスト党の黒シャツ隊を模倣した灰色シャツ隊が登場し、新党の右派的傾向は劇的に強まっていった。結党早々に新党内部に亀裂を生んだ原因がこうした社会政策をめぐるイデオロギーの対立だったことも、支持者の分断的傾向を裏づけている。一時的に壊滅的な経済状態を脱したドイツを例にとっても、モーズリーの経済政策が英国の経済不況を打開するうえである程度の有効性を秘めていたことは明らかであろう。ここに経済不況という社会的条件が作用したことで、モーズリーのファシズム運動は経済政策を隠れ蓑に一部のエリート層を巻き込んだ運動に発展したと考えられる。しかしイタリアとドイツを比較すれば、英国の場合にはすでに強固な議会制民主主義が築かれており、経済状況も深刻ではあったものの壊滅的ではなかったことから52)、ブリティッシュ・ファシズムはそれ以上の広がりをみせることはなかった。Ⅲ モーズリーとニコルソンの離別1  BUF の瓦解新党の活動から手を引きモーズリーと距離を置いたニコルソンではあるが、多くの友人がモーズリーを見捨てたなかで、彼だけはファシストと化したモーズリーを即座に見捨てるほど冷酷ではなかった。ニコルソンは新党を去る間際まで彼の心に寄り添い、最後の手紙には次のように綴っている。 「18 ヶ月も経たないうちに、あなたは根本に立ち返るでしょう。その時が来るまでおとなしくしているべきだとあなたを納得させることができればと256 政治学研究57号(2017)願っています。こんなにも私を悩ませているのは、あなたが行動し感じる全てのことにおいて私はあなたを励まし支えたいと思ってるからです。あなたは苦しい時間を過ごしてきました。そしてあなたの将来を大いに期待する者全員が、いまは事態が複雑で不明瞭だからこそ、あなたの側にいたいと願っています。しかしながら、私は機が熟すまでに自ら判断できません。新しい運動、そこで頭角をあらわすチャンスがあるようには少しも思えないのです。(中略) あなたは私のことを弱さと不安定な心によって打ち負かされた敗北者だと考えるでしょう。そうなのかもしれません。そしてあなたが知っている通り、トム、何が起ころうとも私はあなたの成功と健闘を心の底から願っています。」53)二人はその後も時々会い、ニコルソンはモーズリーの相談に応じて助言を続けた。モーズリーが保守党や労働党から再び誘いを受けたときにもニコルソンは熱心に彼の話に耳を傾けた54)。ニコルソンとしては、一刻も早くファシズム運動から手を引くことが賢明だと考えていた。モーズリーほどの才能があれば必ず返り咲くことができると信じていたのである。しかしながら、「今さら引き返すことはできない」55)。そう考えるモーズリーに対して、彼自身を束縛しているモーズリーの思考にニコルソンは同情している。1936年には公共秩序法(Public Order Act)の制定によって、ファシズムの二大武器である示威行動と黒シャツの着用が規制を受け、ブリティッシュ・ファシズムは衰退の一途を辿った56)。しかし実際には新党が結成された1931年の時点でも、大戦間のイギリス史の分水嶺はしるしづいていたのである。皮肉にも英国の経済恐慌が頂点に達したのがこの「1931年」であり、経済危機はモーズリーの想定していたようなカタストロフィを迎えるまえに過ぎ去っていた。徐々に第二次世界大戦の影が忍び寄るにつれて、英国政府も既述のようにファシズムを法的に統制する動きをみせ、ようやくブリティッシュ・ファシズムの波もおさまりつつあった。その背後ではモーズリーとニコルソンの友情も消えかかっていた。第二次世界大戦が開戦した翌年、モーズリーは1939年に成立した防衛規則18B(Defence Regulation 18B)という法律によって夫人とともに監獄に放り込まれ、ひどく粗末な環境に置かれていた。知らせを受けたニコルソンはかつての仲間として裁判の証言台に立つべきか思い悩んだ。しかしながら熟慮の末、ニコルソンは257モーズリーの世界にもう二度と戻らなかった。それはモーズリーが、ニコルソンにとって越えてはならない一線を踏み越えてしまったからだった。モーズリーがファシズム運動という暴力的で欺瞞に満ちた世界に足を踏み入れたことは、やはりニコルソンが彼との協力関係を絶つ決定打となっていた。2  モーズリーの二面性2 人を結びつけていた友情も政治運動を通してすっかり形を変えてしまったが、これもまた必然だったのかもしれない。というのも、初めからニコルソンとモーズリーの親交はアンビバレントなものだった。二人の性格はあまりにかけ離れていたのだ。1 人は他人の意見を柔軟に受け入れることのできる紳士的な人柄で、もう一方は、ある目的を狂信的に追い求め、無慈悲な一面を持つ男でもあった。ニコルソンはモーズリーへの友情を公言していたが、モーズリーはニコルソンを何でも許してくれる遊び道具のように扱い、内心では見下していた。事実、ニコルソンはマゾヒスティックな度合いでモーズリーの強烈な個性に魅了されていたし、さらに言えばニコルソンの優しさはモーズリーには偽善的で胡散臭く映ったのかもしれない。また、モーズリーは自叙伝の中で、ニコルソンが完全にアカデミックな人間であり、その世界を去るべきではなかったと述べている。「彼は後年にようやく気がついたとおり、政治に向いていなかった」。たしかにニコルソンは政治家として挫折を経験している。だが、ニコルソンが一方的に欺かれたかと言えば、現実には彼にもしたたかな一面があったことは否定できない。すべては誤算に終わったが、仮にモーズリーの新党が政権の座につけば、その暁には活動を支えた見返りとしてモーズリーから外務大臣のポストを与えられるだろうと期待していたのである57)。ニコルソンは労働党の下院議員を務めていた時期にも、権威や地位を手に入れるために、どうにかしてチャーチルに近づこうと努力していた58)。しかし、ニコルソンがモーズリーと決定的に異なるのは、こうした打算的な思考のなかでも常に相手への敬意を有している点にある。ただし、以上で述べたモーズリーの人物像からは想像し難いことだが、モーズリーはほかにも興味深い一面を遺していた。モーズリーの死後、彼が政治生活で使用した個人文書などが彼の家族によってバーミンガム大学に寄贈されている。そのなかに、ニコルソンの記事を小まめに258 政治学研究57号(2017)スクラップしているノートが隠れていた59)。それらの記事は決してモーズリーの名声や彼の政治運動に関わるものではなかった。ニコルソンが刊行した書籍に対する批評や新聞に寄稿した論考、あるいはニコルソンの庭園が紹介された記事などをモーズリーは一枚一枚切り抜いて大切に保管していたのである。もちろんモーズリーの真意をいま正確に読み取ることはできないが、このような労を惜しまぬ行為は愛情がなければできまい。ニコルソンの友情に触れる過程でモーズリーの内面にも何かしらの変化が生じたのかもしれないし、あるいはニコルソンを失ったことで初めて彼の価値を感じていたのかもしれない。3  指導者の苦悩そろそろ「モーズリーがファシズム思想を先鋭化させた要因は何か」という問いに一つの答を出してみたい。それは1929年以来の世界恐慌という社会的条件だけに起因するものではない。心理学者エーリッヒ・フロムは「ファシズムがどのようにして偉大な国民を魅惑したかを理解しようとすれば、われわれはどうしても、心理的要素の役割を認めないわけにはいかない」60)と述べ、これらの非合理性は、人間の性格構造全体と同様に、外界からの、とくにごく幼い時期に与えられた影響の反作用であることを指摘している。また政治学者山口定はファシズムの指導者に共通する特性を見出し、以下4 点に集約した。 その第一は、彼らは、その政治指導のスタイルにおいて、一方では、彼ら自身が新しいタイプの権威主義的な上下関係を国家と社会に樹立することの必要性を正面切って主張しながら、他方では、自らの権力の正統性は、自分たちが「民衆の子」であること、「民族共同体」の一般意思の体現者であることに求めるのである。 第二に、彼らは実際にその社会的出自においても、多くの場合、特権身分や大企業出身でもなければ、労働者階級の出身でもないという意味で、広い意味での中間的諸階層の出身であり、社会の特権的支配層に対する一定の反発をも身につけて育っているということである。 第三に、ファシズムの指導者たちは性格類型論的にいって、いわゆる「限界的人間(マージナルマン)」、わかりやすくいえば「才能があるのに世に受け入れられず」、そのことで胸中に深いルサンチマンをためこんだ「非社交259的な個人主義者」であることが多かった。彼らは、その青春期においては真に対等な関係に立つ親友を得ることができず、政治家として成功した後も、大衆の熱狂にとりかこまれてもなお孤独で隔絶した存在である場合が多かった。 そして第四に、彼らは、多くの場合、「二十世紀の傭兵隊長」(S. ノイマン)としての性格をもっていた。つまり、彼らは、第一次大戦の戦争体験を政治生活の出発点にしており、しかもつねに濃厚な軍事的規律をもった政治結社を身の回りにつくりあげ、素人ながら職業軍人をコントロールできるほどの軍事知識と軍事指導者としての素質をも身につけていた61)。こうした視点からモーズリーについて再考すると、モーズリーがファシストに転身したことは何も特別な事情によるものではなく、彼が他国におけるファシズム指導者に共通した性質の持ち主であったことが浮かび上がる。モーズリーの出自は上流の階級を約束されたものではあったが、不誠実な父から引き離されたモーズリーは5 歳以降、母の質素な家で暮らしていた。ヒトラーやムッソリーニは二人とも中間層下層の出身であったが、幼年期の生活は彼らが宣伝したほどに貧しくはなかった。対照的にモーズリーの場合は、たしかに巨大で贅沢を尽くした祖父のカントリー・ハウスで過ごすこともあったのだが、生活の大部分は母の家で送ったことから一般に想起される上流階級の暮らしぶりとは異なるものだった。またプレパラトリー・スクールに入学後のモーズリーは自らの充足感を教室で満たすことができず、体育館に隠れてボクシングやフェンシングの練習に夢中になっていた。孤独で隔絶された青春期を過ごしたモーズリーは、ウィンチェスターで催されたフェンシング大会でフルーレとサーブルの両種において優勝したことからも、当時いかにフェンシングに没頭していたかがうかがえる。彼は英国代表にも選ばれたのだが、第一次世界大戦で負った右足の傷のために世界大会への出場を阻まれた。そして例に漏れずモーズリーもまた第一次世界大戦での従軍体験を政治生活の出発点としており、「英雄たちにふさわしい祖国を再建する」という生涯貫いた政治信条は戦争体験によって付与されたものだった。保守党時代には主に従軍経験者からなる保守と自由の横断的な組織「新人議員協議会」をつくり、このような戦争世代の結合というビジョンはファシズム期まで引き継がれている。260 政治学研究57号(2017)第一次世界大戦の落とし子という点でモーズリーは時代の犠牲者だったのかもしれないが、モーズリーを語るにはそれだけでは到底足りない。彼の人生の重み、とくに幼年期に与えられた影響が、戦間期という特異な時代のなかでモーズリーの個性に作用したのであろう。終 章英国社会が大きく変容するなかでモーズリーは時代の変化に苦しんでいた。凋落してゆく上流階級に生まれ、彼はその変化をもっとも身をもって感じていた。モーズリーは当時の心境を回想し、「猛烈な勢いに追い立てられて、悲哀を感じました」と書き残している62)。自由主義、資本主義、レッセフェールといった18世紀以来英国社会を支配してきた価値観をモーズリーは心底嫌っていた。心の底では、政治生活を通して自らが失った美しい階級的な世界を再び取り戻したいと願っていた。しかし目前には深刻な経済危機が立ち現れ、そのような猶予はモーズリーに与えられなかったのである。自らの階級のみならず、生まれ育った祖国までもが危機に見舞われ、モーズリーは二重の苦しみを味わっていた。英国議会の機能が低下し、政治的にも経済的にも落ちぶれてゆく英国の姿をみて、モーズリーはそれを必死に守ろうとした63)。だが不幸なことに、彼のアイディアを受け入れてくれる政党はどこにもなかった。現実にケインズ革命が生じたことからも、モーズリーの政策すべてがまったくの誤りであったということは、おそらくモーズリーを評価するうえでフェアではないのだろう。彼の経済政策はケインズの発想に基づいていたし、それゆえに、一部の知識人はモーズリーの運動に希望を抱いたのである。ただし先にも見たように、モーズリーのファシズムには進歩的な要素と伝統的な要素が共存していた。たしかに彼の経済政策は従来の自由放任主義に取って代わる進歩的な内容だったが、社会政策に関しては長きに亘って英国に蔓延っていた「反ユダヤ主義」や「アングロサクソン至上主義」という思想を前面に押し出したものであった。その思想を政治運動に取り込んだことが、ニコルソンにモーズリーのもとを去る決意をさせ、さらにはモーズリーのファシズム運動の敗因ともなった。モーズリーの息子ニコラス・モーズリー(Nicholas Mosley, 1923~)は父の人生261を回顧して、次のように記している。「恐らく父は権力を欲していませんでした。それよりも英雄になることを夢見ていたのだと思います」64)。もし新党が結成された1931年以降も、モーズリーの予測通りに英国経済が奈落の底まで落ち続けていれば、彼はファシストとして英国史に名を刻むことはなかったのかもしれない。1 ) 見市雅俊「サー・オズワルド・モズリーとイギリス・ファシズムの生成(上)」『西洋史学』第117号(1980年)、49頁。2 ) R. スキデルスキーもモーズリーの首尾一貫性を認めている。同上論文、46頁。3 ) 同上論文、49頁。4 ) Hugh Dalton, Call Back Yesterday; Memoirs 1887-1931 (Muller, 1953), p.293.5 ) Robert Skidelsky, Oswald Mosley (London: Macmillan; Revised edition, 1990), p.247.R. スキデルスキーはモーズリーに関する公認の伝記の著者である。6 )『イギリス現代史1900-2000』の著者ピーター・クラークは、文献案内の項目において、既述の理由からSkideldky, Oswald Mosley は影が薄れてしまったと酷評している。詳しくは、ピーター・クラーク『イギリス現代史 1900-2000』(名古屋大学出版会、2004年)、文献案内27頁を参照されたい。見市雅俊氏も同様に、「サー・オズワルド・モズリーとイギリス・ファシズムの生成(上)」のなかで「スキデルスキーは『伝記作家』に許される『同情』の範囲を逸脱して余りにモーズリー寄りの記述に逸したとの印象は否めない」と論じている(49頁)。7 ) OMD1/5, University of Birmingham Special Collections Cadbury ResearchLibrary, Birmingham, the United Kingdom.8 ) OMD2/2/12, University of Birmingham Special Collections Cadbury ResearchLibrary.9 ) 見市雅俊「サー・オズワルド・モズリーとイギリス・ファシズムの生成(下)」『西洋史学』第118号(1980年)、52頁。10) David Cannadine, Decline and Fall of the British Aristocracy (New York: VintageBooks, 1999), pp.547-548.11) 見市前掲論文(上)、52頁。12) James Lees Milne, Harold Nicolson Volume II: A Biography, 1930-1968 (London:Faber and Faber, 2012), p.17.13) Skidelsky, op.cit., p.63.14) Oswald Mosley, My Life (London: Black House Publishing; New Illustrated Edition,Electric Edition, 2011), No.770.15) Skidelsky, op.cit., pp.65-66.16) Skidelsky, op.cit., p.72.17) J. Drennam, B.U.F.: Oswald Mosley and British Fascism (London: J.Murray, 1934),262 政治学研究57号(2017)p.13.18) Skidelsky, op.cit., pp.15-19.19) David Cannadine, History in Our Time (New Haven and London: Yale UniversityPress, 1998), p.260.20) 君塚直隆『物語 イギリスの歴史(下)―清教徒・名誉革命からエリザベス2 世まで』(中公新書、2015年)151頁。21) ランカスター公領相は‘Chancellor of the Duchy of Lancaster’ と表記されるため、日本語ではランカスター公領総裁と訳されることもある。この役職は、統括官庁を持たないながらも内閣に席を置く「無任所大臣(Minister without Portfolio)」の一つである。20世紀のイギリス政治においては、無任所相は個別の統括官庁は持たないものの、政府にとっての特別の職務を遂行するために設けられているのが通例だった。詳細については君塚直隆「近代イギリス政治における無任所大臣の変遷」(『史学雑誌』第107編第7 号、1998年、65-88頁)を参照されたい。 モーズリーの場合にはランカスター公領相に任命される一方で失業問題担当のセクションに置かれた。だが、モーズリーは最高責任者のJ. H. トマスから毛嫌いされていたうえに、失業対策の大綱の作成において力を握っていた大蔵省の蔵相の座にいたのがモーズリーの宿敵スノードンであったことから、労働党でも厳しい立場に置かれていたことが推測できる。22) 見市雅俊によれば、両大戦期のイギリス経済の最大の特徴は景気のいかんにかかわらず失業率が常時10%を超えていたことだった。ただ、結果的にはイギリスでは恐慌による打撃は他の西側諸国に比べて軽くすみ、ドイツのように大きな社会不安が生まれることはなかった。23) Mosley, op.cit., No.5251.24) Milne, op.cit., p.7.25) 佐藤恭三「モーズレイと英国ファシスト同盟」『政治経済史学』180号(1981年)、8 頁。26) Robert Benewick, The Fascist Movement in Britain (London: Allen Lane PenguinPress, 1972), pp.73-75によれば、1931年3 月の「新党」設立当初、参加した国会議員は保守党からはW. E. D. アレン(W. E. D. Allen)、労働党からはモーズリーの妻のシンシア・モーズリー(Cynthia Mosley)、ジョン・ストレイチー(JohnStrachey, 1901―1963)、ロバート・ホーガン(Robert Forgan)、W. J. ブラウン(W.J. Brown)それに保守党党首の子息であるオリバー・ボールドウィン(OliverBaldwin)がいた。しかしながら、このうちボールドウィンとブラウンはすぐに新党を去った。幹部間での協議なしに、モーズリーが独断でThe Observer に新党がファシスト的な要素を持った組織であることを認め、記事を書くことを許したからである。また、知識人層ではオスバー・シトウェル(Osbert Sitwell)、ハロルド・ニコルソン、プロパガンダの監督に任命されたC. E. M. ジョード(C. E. M.Joad)などが新党のメンバーとして活動した。ただし、ジョードは自身の提言が活かされないことから、ストレイチーとアラン・ヤング(Allan Young)の辞任263後すぐに党を去っている。27) Robert Benewick, The Fascist Movement in Britain (London: Allen Lane PenguinPress, 1972), p.75.28) ニコルソンの日記によれば、1931年4 月29日、ケインズはニコルソンに対して、新党への投票を約束している。詳細は、Nigel Nicolson, ed., The Harold NicolsonDiaries 1907-1964 (London: Phoenix, 2005), p.89を参照されたい(以下、HND と略し、日付を付して記すことにする)。さらに同書p.72では、ケインズは、新党の経済政策(the Programme)は他の党が提出しうるどの政策よりも理にかなっていて魅力的であることを認めているが、彼はあくまで政策に同意を示したに過ぎず、モーズリーの方法論には同意していない様子が描かれている。29) Milne, op.cit., volume II, p.15.30) HND, November 30, 1930, p.86.31) 細谷雄一『大英帝国の外交官』(筑摩書房、2005年)、109頁。32) Milne, op.cit., Volume II, p.7.33) 細谷前掲書、108頁。34) Skidelsky, op.cit., p.249.35) Benewick, op.cit., p.73.36) Milne, op.cit., volume II, p.15.37) ニコルソンは1931年7 月23日の日記の中で、新党のファシズム的傾向について書いている。それ以来、日記や妻への手紙の中に、ファシズムに傾いてゆく党への疑問や不満がみられる。38) Nigel Nicolson, ed., op.cit., p.103.39) 細谷前掲書、111頁。40) 同書、110頁。41) Milne, op.cit., Volume I, pp.1-31.42) Robert Leach, Political Ideology in Britain, Third Edition (India: Palgrave, 2015),pp.187-189.43) HND, September 22, 1921, p.95.44) Leach, op.cit., p.188.45) Oswald Mosley, The Greater Britain, New Edition (London: Jeftcoats, 1934).46) Ibid., p.19.47) Ibid.48) Ibid.49) OMNB/7/1, University of Birmingham Special Collections Cadbury ResearchLibrary.50) 佐藤前掲論文、6 頁。51) 見市前掲論文(上)、54頁、Oswald Mosley, Revolution by Reason (No PublisherStated, 1925), pp.7-8, 28.52) Robert, op.cit., p.188.264 政治学研究57号(2017)53) Skidelsky, op.cit., p.288.54) HND, April 19, 1932, pp.104-105.55) Ibid.56) 佐藤前掲論文、1 頁。57) Milne, op.cit., p.18.58) 細谷前掲書、113頁。59) OMD7/1/18/7-15, University of Birmingham Special Collections CadburyResearch Library.60) エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1965年、新版)、16頁。61) 山口定『ファシズム』(岩波現代文庫、2006年)、84-87頁。62) Skidelsky, op.cit., pp.23-43. Cannadine, op.cit., p.548.63) Richard Thurlow, Fascism in Britain: A History, 1918-1985 ( London: BasilBlackwell, 1987), p.92.64) Cannadine, History in Our Time, p.263.